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2025/04/29 21:39 |
ブログを新しくしました
http://blog.goo.ne.jp/arinkobone/
よろしくお願いします。

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2008/01/27 22:45 | Comments(0) | 未選択
前提

あまりに身近にあるものには意外と気がつきにくいということを経験的に感じたことはないでしょうか。

たとえば、親しい人からの愛とか。

そういった、灯台下暗し的事情は、自分の心の中、あるいは頭の中でも起こりうるんだろうと思います。

それが今回のテーマ、「前提」です。


最初にあげる「前提」の例は、言葉の認識についてです。

言葉は、広辞苑を引けば何万語も定義付けされて載っているのですが、その定義にも(当然ですが)言葉が使われています。言葉を定義するために言葉を使う。その繰り返しになるので、結局は何も定義できていないことになります。

AさんとBさんとが同じ言葉を用いても、それが全く同じ意味だということは無い。というようなことを言ったのはウィトゲンシュタインだったと思いますが、僕もその考えに賛成です。

僕が、「東京都」という言葉に持つイメージと、そう○け君が「東京都」という言葉に持つイメージはきっと同じではないでしょう。

そうす○君が「裁判」という言葉にもつイメージと、僕が「裁判」という言葉に持つイメージはきっと違うでしょう。

全ての言葉はこのように、少しずつ人によって違った意味を持っているのだと思います。このことはきっと納得しやすい考え方なんじゃないかなと思います。

そして、僕たちは言葉を使うときにある前提を作っています。

会話する両者が用いる同じ言葉は同じ意味である、という前提です。そうすることで、言語は成り立っています。そういう条件付きの道具なんですね。

「前提」は前提なので、暗黙の了解のごとく、いちいち確認しません。普段の会話で、「僕がこの言葉を使うときは、~なニュアンスを含んでるから、よろしくね」なんて、言いません。楽曲の解釈みたいになっちゃいます。普段言葉を使うときは、そこのところの細かいチューニングは割愛してるわけです。

だ・か・ら、会話をしててうまくハーモニーが合わないときがある!笑
ハーモニーをあわせるには、まず正確なチューニングと、きれいに響かせるぞ、という気持ちが大事です!


(話は戻って、)でも、このような「前提」はあまりにあたりまえのことなので、普通、気にしません。あるいは、前提があることにも気づかなかったりします。灯台下暗し的事例です。

そして、前提があることに気がつかないと、あるいは前提があることを忘れてしまうと、後でとんでもない矛盾が生じるかもしれません。会話でのコミュニケーションは完璧なものではなく、人は他人と完璧に意思を疎通させるということはできないんだと思います。だから音楽があると思う人もいれば、愛があるという人もいるんですね。音楽は、意思でなくて、感情なんじゃないかな、と個人的には思います。余談ですが。



話を勝手に拡張しちゃうと、人の生き方というのにも前提があって、人はその前提に従って生きているんだと思います。

自分がどんな足かせを自分に科しているのか、どんなフィルターを通して世界を見ているのか、意外と考えたりしないものです。始めから足には何もついていなくて、視界は良好!だと思い込んでいます。でもそれは気づいていないだけなのかもしれません。灯台下暗し的事例かもしれません。


自分の「前提」を知ろうとすることは、自分の生き方を見つめなおすことと同義であると思います。

いまの自分の生き方が嫌なのではありません。そうではなくて、今自分が歩んでいる道がいったい地図上のどの地点なのか、どういう土地を歩いているのか、他にはどういう土地があるのか、ということを知りたいんです。そのために、自分を見つめることが大切だと思ったのでした。


2007/09/03 18:58 | Comments(1) | TrackBack() | the third act
おひさし
人の生き方って、どれもちがって。

でも実はどれも同じ。

みたいな妄想を抱いちゃうのも、僕の生き方。


世の中にはそういうことばっかり。

全てはコンプレックス。複合体。

だから、ある一面では赤色でも、違う一面は青色なんてことは、あたりまえ。


その複合体が何色に見えるか。ということは、もちろん、見る人にかかってる。

その複合体が金色なのは、見る人がそう見ているから。

その複合体が茶色なのは、見る人がそう見ているから。


でも、そんなことは、いろんな人が発見してきたし、主張してきた。

ありは全体で一つの生き物だって言われるけれど、人間だってそうではないとどうして言える?

すなわち、ありも、ある側面では個人なわけで。人間もある側面では個人だけど、違う側面では全体で一つの生き物かもしれませんよ?

2007/08/29 12:49 | Comments(0) | TrackBack() | 未選択
川北氏
人生とはその人の考えたとおりのものである。自分がこうなりたいと思う姿を思い描いている人は、その望みが心底真実であれば、そのような人生を手に入れることができるのだ。こういうと、たいていの人は首を横に振る。思ったとおりになんかなっていないというのである。しかし本当にそうだろうか。

「そうさ、自分は音楽家になりたかった。だがご覧のとおりのしがないサラリーマンだ」

「じゃあ聞くが、君は今もずっと音楽家志望なのか」

「まさか。もうこの歳でなれるわけが無い」

「いつ断念したのだ」

「高校受験で音楽学校を受けて落っこちたときだ」

「だったら君がそう思ったのは、はるか昔の一時期だけじゃないか」

「そうだけど思ったとおりにはなってないじゃないか」

「違うね。僕が言うのはそういうことじゃないんだ。君は人生を思い通りにならないと思ってる」

「そうさ」

「だから、思ったとおりの人生を手に入れている。思い通りにならないという人生観ぴったりの人生をさ」

…(中略)…

自分の願望を思い続けることはそう簡単ではない。ほとんどの人は続かない。だから実現しないのだ。思い続けない人が「思い続けてもダメだ」とどうして言えるのか。世の中には思い続けて望みを実現した人もたくさんいるのだ。いかなる人生もその人の考えた所産なのである。

γγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγ

この話には勇気とやる気を与えられる。諦めないかぎり、少なくとも希望をもって何かに取り組むことができる。諦めたらもうそれは「無い」んだ。

だれか、昔の人で、おまえはキリスト教を信じるか、という質問に対して、

「もしキリスト教を信じなくて神様が実在した場合よりも、キリスト教を信じて神様が実在しなかったときのほうがいくらか良い」

って言ってキリスト教徒になった人がいた気がするが、

あ…?

関係ないか。


じゃあ、冒頭の話と関係するようなことを、19世紀のアメリカの心理学者(哲学者でもある)が言っているので紹介しようと思う。

“われわれのもつ可能性に比べると、現実の我々はまだその半分の完成度にも達していない。われわれは、肉体的・精神的資質のごく一部分しか活用していないのだ。概して言えば、人間は、自分の限界よりも、ずっと狭い範囲内で生きているに過ぎず、いろいろな能力を使いこなせないままに放置しているのである。”ウィリアム・ジェームズ

20世紀の老人学者も面白いことを言っていると思う。

“老化の75%は自己願望の現れである”アレックス・カムフォート

実は、リンカーンも肯定的に次のようなことを言っている。

“およそ人は、幸福になろうとする決心の強さに応じて幸福になれるものだ”

シューマンは、『音楽の座右名』の中で、“山の向こうにも人はいる…”と言ったが、まったくそのとおりだと思う。地理的にだけでなく、時間的にも人は地球上のいたるところに住んで、いろんなことを考えている。人類が10万年の昔からいままで考えてきたことと、人一人をつくっている原子の数と、どちらが多いのだろう。

僕が思ったのは、自分が今悩んでいることなんて、人類の歴史を振り返ると、何千何万人という人が同じようなことを悩んで、何万何億人という人が、それよりももっと深刻な悩みをもっていたんだろうということ。それを今になってまた悩むのもいいけど、悩んでいる暇は意外と無いな、という、気がする。探せば情報はいくらでもある時代。土台は出来上がっている。どう生きるかは僕次第だ。

2007/06/20 05:36 | Comments(0) | TrackBack() | the second act
人の中で生きる
「名前とは、人が聞いて一番心地よいと思う響きを持った言葉であることを忘れてはならない。」デール・カーネギー


この言葉は、単に、社会で成功する秘訣を教えようとしているものかもしれません。

人は誰だって、名前を覚えてもらったらうれしいもの。名前を呼ばれた瞬間、少なくともその一瞬は、人は自分を必要としてくれているのだと感じるのだと思います。そういう無意識の心の動きが、人間関係をスムーズにするのに一役かっているのかもしれません。

相手の名前を呼んであげることで、相手に「自分はこの人にとって必要な人間なんだ」と思ってもらうんです。人は自分を必要としてくれる人には大なり小なり尽くそうとするかもしれません。人は一人では弱いから、自分の存在している意味を見出そうとする。それは生きているというのと同じ意味かもしれない。だから、誰かに必要とされれば、そこに自分が生きる意味がそのひと時みつかる。人は安心するんでしょう。それが無意識の元で行われているにしても。

しかし、そういうことは、誠意をもって相手に接することによってはじめて見られるのだと、カーネギーは言っています。



また、カーネギーの言葉は、「人とは結局のところ、利己的なんだ」ということを含んでいるように思われます。

人はだれでも、自分を必要としている人を、自分の話を1分でもいいから聞いてくれる人を、自分の話の半分にでもいいから賛成してくれる人を、探しているんだと思います。ミクシーなんて、そのいい例です。笑

人は、自分を見て欲しいんです。常にそう欲している。だから、自分を見てくれる人とは仲良くやろうとする。そうでない人とは仲良くしようとしない?自分の話を聞いてくれない人に好感がもてますか?

「あいつは自分の考えばかり言って人の話を聞かない」と不満を言うのは、つまり、「俺のありがたい話を聞け」、と言っているのと同じかもしれません。そういう発言から、その人の利己的な部分を実は見ることができるのだと思います。

しかし、人はそういうものだと思います。別に汚いことではないと。でも、誰にでもわかることがあります。それは、自分の話を聞いて欲しいのは、みんな一緒だということ。もし、自分の話を聞いてもらいたいのなら、相手の話を先に聞いてあげたらいいじゃないか、ということです。それでうまくいくのなら、数分間、自分の話を切り出すのが遅くなっても、我慢すべきではないでしょうか。


2007/06/15 08:34 | Comments(0) | TrackBack() | the second act

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