哲学、というと、古代ギリシャの神殿をプラトンとアリストテレスが並んで歩いている、あのラファエロの絵を思い起こすでしょうか?←名前あってるかな?笑
まぁ、どうでもいいんですが。
自分の人生は自分が作る。と僕は思うのですが、みなさんはどう考えますか?
みなさんはどうなのかわかりませんが、自分の人生なのに、自分で作るっていうことを忘れていることが多いということを最近感じます。それは、自分の世界を自分で作ることをしていないっていうことです。
当然ながら、世界を感じているのは自分であって、それ以外はありえません。ご存知のとおり、その世界を自分が感じ取り把握するために必要なのは、五感と、脳です。それらプラス、心と言っておこうと思います。
たとえば目に入ったある種の振動(光)は、たぶん網膜で電気信号に変わり、視神経をつたって脳までいき、脳の視覚情報を処理する場所で僕たちが認識できる”画像のようなもの”に変換されます。こういうことが体のあちこちでおこっていて、それらを複合的に判断し、世界を把握するわけですが、話はそれで終わりません。
まず、目に入ってくる光をキャッチする網膜の細胞は、その遺伝子のために個人によって千差万別です。赤色を感知しやすい人もいれば、青を感知しやすい人もいるかもしれない。夜目がきく人もいれば、鳥目の人もいる。このように個人によって違うわけです。そして、視神経にも同じようなことが言える。丈夫な神経だったり弱い神経だったり、それは本当に微小な違いでしょうが、わたしたちの目は数百ナノメートルという光を扱い、細胞よりも小さい電子に変換しているわけですから、微小の違いでも無視することはできません。そしてもっとやっかいなのが、脳での情報処理です。それは、間違いなく、その人個人の経験とかそういうものと密接に絡み合っていますから、たとえ同じ目と、神経をもっていたとしても、ここにきて画像がはたして同じように再現されるかというと、疑問なわけです。
と、長くなりましたが、そういうわけで、人が見る世界は千差万別なんです。それは色とか形とかだけではなく、なにか物がそこに在るか無いかという重大なことにまでかかわってきます。その簡単な例は、カーボン60です。
カーボン60というのは、比較的最近発見された化学物質の名前です。温暖化で有名になった二酸化炭素、その二酸化炭素の分子一つに炭素原子が二つ使われていますが、このカーボン60の分子一つにはなんと炭素原子が60個も使われています。それらがサッカーボールのような形をとるという、おもしろい形をした分子です。これを最初に発見した3人の学者はノーベル化学賞を受賞しています。
その発見に際して面白い話があります。
ある工学系の教授がそのサッカーボール状の分子が発見されたという話を聞いてから自分のファイルに入っていた電子顕微鏡の写真を見てみたら、なんとすでにカーボン60が映っていたそうです。しかし、教授はその存在に気づかなかった。見えていても、その教授の世界には存在しない分子だったため、”無かった”んです。
つまりこういうことが、僕が言いたいことの一つです。”無いもの”は無い。
逆の発想をすると、”在るもの”はどうなのか、という疑問が当然出てきます。しかし、もう答えは書いてあります。もう一度わかりやすく書くと、そのカーボン60を発見した3人の学者こそが、”在るもの”は在る、ということを物語ってくれています。つまりその学者たちは、炭素原子が60個つながってボール状になっている分子があるはずだ、という頭で探していたわけです。でも、彼らはたしかに予想が的中するという幸運に恵まれたということも言えます。だから、正確さを求めて言うなら、”在るもの”は在るかもしれない、と、こうなります。
僕は、そのことはとても大切なのだと思います。あきらめず、在るのだと信じていれば、それは在るかもしれないではないですか。物質的なことに限らずね。でも、無いのだと思ったら俄然無いのです。生きて、経験をつんでいくうちに、世の中をわかったような気になってしまいがちです。でも、経験を生かしつつ、柔軟な人間になることは不可能ではないのだと思います。
どうでしょうか?
だったら、出来るだけ多くのものを自分の中に存在させたいっすね。
まぁ、いろんな可能性があってもいいと、思うよねー。