忍者ブログ
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


2025/04/29 21:13 |
前提

あまりに身近にあるものには意外と気がつきにくいということを経験的に感じたことはないでしょうか。

たとえば、親しい人からの愛とか。

そういった、灯台下暗し的事情は、自分の心の中、あるいは頭の中でも起こりうるんだろうと思います。

それが今回のテーマ、「前提」です。


最初にあげる「前提」の例は、言葉の認識についてです。

言葉は、広辞苑を引けば何万語も定義付けされて載っているのですが、その定義にも(当然ですが)言葉が使われています。言葉を定義するために言葉を使う。その繰り返しになるので、結局は何も定義できていないことになります。

AさんとBさんとが同じ言葉を用いても、それが全く同じ意味だということは無い。というようなことを言ったのはウィトゲンシュタインだったと思いますが、僕もその考えに賛成です。

僕が、「東京都」という言葉に持つイメージと、そう○け君が「東京都」という言葉に持つイメージはきっと同じではないでしょう。

そうす○君が「裁判」という言葉にもつイメージと、僕が「裁判」という言葉に持つイメージはきっと違うでしょう。

全ての言葉はこのように、少しずつ人によって違った意味を持っているのだと思います。このことはきっと納得しやすい考え方なんじゃないかなと思います。

そして、僕たちは言葉を使うときにある前提を作っています。

会話する両者が用いる同じ言葉は同じ意味である、という前提です。そうすることで、言語は成り立っています。そういう条件付きの道具なんですね。

「前提」は前提なので、暗黙の了解のごとく、いちいち確認しません。普段の会話で、「僕がこの言葉を使うときは、~なニュアンスを含んでるから、よろしくね」なんて、言いません。楽曲の解釈みたいになっちゃいます。普段言葉を使うときは、そこのところの細かいチューニングは割愛してるわけです。

だ・か・ら、会話をしててうまくハーモニーが合わないときがある!笑
ハーモニーをあわせるには、まず正確なチューニングと、きれいに響かせるぞ、という気持ちが大事です!


(話は戻って、)でも、このような「前提」はあまりにあたりまえのことなので、普通、気にしません。あるいは、前提があることにも気づかなかったりします。灯台下暗し的事例です。

そして、前提があることに気がつかないと、あるいは前提があることを忘れてしまうと、後でとんでもない矛盾が生じるかもしれません。会話でのコミュニケーションは完璧なものではなく、人は他人と完璧に意思を疎通させるということはできないんだと思います。だから音楽があると思う人もいれば、愛があるという人もいるんですね。音楽は、意思でなくて、感情なんじゃないかな、と個人的には思います。余談ですが。



話を勝手に拡張しちゃうと、人の生き方というのにも前提があって、人はその前提に従って生きているんだと思います。

自分がどんな足かせを自分に科しているのか、どんなフィルターを通して世界を見ているのか、意外と考えたりしないものです。始めから足には何もついていなくて、視界は良好!だと思い込んでいます。でもそれは気づいていないだけなのかもしれません。灯台下暗し的事例かもしれません。


自分の「前提」を知ろうとすることは、自分の生き方を見つめなおすことと同義であると思います。

いまの自分の生き方が嫌なのではありません。そうではなくて、今自分が歩んでいる道がいったい地図上のどの地点なのか、どういう土地を歩いているのか、他にはどういう土地があるのか、ということを知りたいんです。そのために、自分を見つめることが大切だと思ったのでした。

PR

2007/09/03 18:58 | Comments(1) | TrackBack() | the third act

| HOME |
忍者ブログ[PR]