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2025/04/30 04:13 |
たろうくんの時間
たろうくんは学校の食堂で昼食をとっています。

今日のメニューは、ライスS、豚汁、巣篭もり卵、鮭のフライ。豚汁のおいしさに最近気が付いたたろうくんは、味噌汁をたのむのをやめてもっぱら豚汁をたのむようになりました。

今日は午前中は家で調べもの。午後には資源材料系の講義がまっています。食堂には一人で来ました。

食堂の南側はガラス張りのようになっていて、構内のプチ森林が見渡せるようになっています。晴れた日は窓辺で食事をすると気持ちが良いです。

さて、その南側の壁には、上のほうに小さな時計が一つだけ壁にかかっています。学生はみんなそれぞれ時計をもっているから、たいして大きな時計は要らないのでしょう。でも、たろうくんは時計をしません。午後の授業に間に合うようにその時計を見ながら食事です。

時計を見ながら、たろうくんはふと考えました。時計は一回りして同じところに戻ってくるけど、世の中は一回りして戻ってくることはないな、と。時計の上では時間は永遠だけど、人の時間は永遠じゃない。

時計はただひたすら同じ間隔で動き続ける。でも僕たちはどうだろう。元気に走り回ったりもするし、風邪を引けば寝込んでいたりもする。運動しているときも寝ているときも等しく時間は進んでいるんだろうか。等しく老いているんだろうか。

細胞分裂は体がどんな状態であっても等しい速度で行われるのか。それはなさそうな気がする。細胞分裂も化学反応と考えると、化学反応の速度はおそらくガウス分布だろうし、温度などの条件によって変動するに違いない。そうすると、人の老いの速度は確率で決まってくる。

大雑把に言っちゃうと、ひとりひとりの時間間隔は互いに等しくないし、それ一つをとっても一定の間隔ではないのか。人はひとりひとり異なる時間間隔で生活しているのかもしれない。時計は、社会で生活するためのルールの一つなのかも。

でも僕たちの中に時間って言うものがあるとしたら、それは何なんだろう。当然のように時間っていう概念があるように思われているけれど、本当にそんなものがあるのだろうか。僕たちが今まで生きてきた時間、20年という時間、それは何で図ってきたのか。地球と太陽の位置関係だ。僕が生まれてから今まで、地球は太陽の周りを20回まわった。その物理的な太陽と地球の相対関係が、時間というものをあるように見せかけている。

世の中の時間は、光の進む距離と比較して捉えられている。
たとえば、おばあちゃんが編み物を始めた瞬間に、灯台から光が放たれる。しばらくしておばあちゃんが手袋の親指の部分を編み終わる、その瞬間に光が到達した地点までの距離を測る。おばあちゃんは、光が灯台から太陽まで到達する間に手袋の親指の部分だけ編んだ、となる。これは、8分で編んだというのと同じことだ。

時間は、お金やエネルギーと同じようなものなのかもしれない。つまり、光の進む距離を時間というものに換算することで、便利でしょ、ってことだ。


もの思いにふけっていたたろうくん、時計を見直すと1時を過ぎている。もう講義が始まっています。

あわてて食器を返して教室へ走るたろうくん。なにか矛盾を感じつつも。
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2007/05/25 00:37 | Comments(0) | TrackBack() | the second act

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