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2025/04/30 13:22 |
汝、驕る(おごる)事なかれ
そうさ、僕が考えていることで、過去のいつかに誰も考えたことが無いことなんてほとんど無いに違いない。

だからこそ、自由に生きたらいいじゃないか。

あせらなくていいんだ。ゆっくり、自分でしっかり生きていけばそれでいいじゃないか。

それでもあせってしまう、人間かな。

汝、驕る事無かれ。


まぁ、自分に言ってるんだけど、自分に言っているだけでは無いんだなって思う。
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2007/03/26 04:50 | Comments(0) | TrackBack() | the second act
「詩」風味

演奏家とオーケストラ



演奏家はずっと悩んでいました。自分はなぜ演奏をしているのかと。

演奏家はいいました。

わたしはあなたのなんなのですか。

するとオーケストラは答えます。

あなたはわたしの一部です。



演奏家はまだ悩んでいました。自分は自分の意思で演奏しているのかと。

演奏家はいいました。

わたしはあなたのなんなのですか。

するとオーケストラは答えます。

あなたはあなたの役割をこなせば良いのです。




演奏家はまだまだ悩んでいました。自分の役割とはなんなのだろうかと。

演奏家はいいました。

わたしはあなたのなんなのですか。

するとオーケストラは答えます。

あなたは今の自分の演奏をすれば良いのです。





演奏家はまた悩んでいました。それでも自分はオーケストラに縛られているのではないかと。

演奏家はいいました。

わたしはあなたのなんなのですか。

するとオーケストラはいいました。

では、わたしはあなたのなんなのですか。






演奏家は悩みました。自分にとってオーケストラとはなんなのかと。

長いあいだ、演奏家は考えました。

そしてあるとき突然、演奏家はいいました。



音楽家になろう。








そして音楽家になろうとした演奏家は楽器を捨てました。オーケストラを捨てました。楽譜も、衣装もみんな捨ててしまいました。

さいごに残ったのは、彼自身でした。

音楽家は、また音楽を楽しむことができるようになりました。もう、悩んだりはしません。

さいごに、音楽家はいいました。

わたしはあなたのなんなのですか。

するとオーケストラは答えます。

あなたの一部がわたしです。


2007/03/23 05:28 | Comments(0) | TrackBack() | the second act
ともだち

僕は明らかに人を欲しています。

仲間たちと、一緒にいるとき、僕はとても大きな幸せを感じます。

なにをしゃべっていても、なにをしていても、すごく楽しい。

遠慮のない関係を築ける仲間。年下なのか年上なのかなんて関係ないです。オー、セニョリータ!



人との距離を決めてしまうのは自分自身なんだと、思いますか?



自分の中にないものは、自分の外にもないと、思いますか?



僕は、自分の意識の中に無いものは、たとえ自分の意識の外にあったとしても、気づくことができないと信じています。そうすると、それは無いのと同然です。
言い換えると、自分の意識の中にあるものは、外にある可能性があります!

この世のすべてが、僕たちの目の前に出揃っているとは到底思えません。むしろ、ほとんど僕らは何もわかってないのかもしれないです。既知の事実と矛盾することを頭の中から排除してしまうことは、この世のほとんどのことに対して目をつぶっているようではないですか?


僕は自分の生き方を見つけたいと、最近思っているのかもしれません。


2007/03/17 08:45 | Comments(1) | TrackBack() | the second act
飛ぶのだー☆

量と質。
みなさんはこの二つの概念をお持ちでしょうか。
よく、量より質、といったりしますが、これは、この二つの概念が相反するものであることを前提としています。

このように、二つの異なる概念をもってきて、それについて物事を対比させることを人はよくやります。
量と質、良いと悪い、損と得、意思か偶然か。。。
それは悪いことでも良いことでもなく、当然のことだと思われます。

しかし、すごく紛らわしいことがここで起こっていると感じます。上記のように二つの概念をもってくるときに、その二つの概念が、まったく異なる概念だという前提を、僕たちは無意識に作っているのです。そうしなければ比べることはできません。

さて、本題に入ってきますが、それらがまったく異なる概念であるということが無意識に前提とされてしまうと、多少困ったことが生じてくるような気がします。それは、それら二つの概念を各々の点として捉えてしまうということです。しかもその点は、思考の対象としている空間の端と端に存在する点なのです。

どんな言葉が適切なのか僕も良くわからないし、抽象的に書いているので、なにを言いたいのかわからないかもしれませんが、とりあえず読み進めてください。

でももしかしたら、それらの概念は点ではなく、お互いに結びつく線なのかもしれません。

量と質は、量という点と、質という点ではなく、量でも質でもないべつの何かの線のうえにあるんじゃないかということです。それらは相反しますが、実は、同じ物なのだという気がします。量も、質も、同じなんです。もっと正確にいうと、同じ要素を含んでいるんだということになります。量と質が一見違って見えるのは、その要素の割合と個数の問題なのです。

わかり易い例があります。僕は農学部なのでそれらしいことを。。
元素はどうやら陽子の個数で性質が決まるらしいです。1個なら水素、2個ならヘリウム、3個ならリチウム、?個ならウランというように。量で質が決まっていることが見られる、身近な例だと思います。つまり量と質は同じ概念なんです。
また、光は波であり粒子である。ということも、覆せてはいません。

例として、量と質について見てみましたが、僕たちが普段使っている概念がすべてそうなのだという気がします。好きなのと嫌いなのも一緒なんですね、おそらく。そう考えると面白くないですか?もっと世界が自由に見えてきませんか?楽しいのもつらいのも同じ概念なんです。世の中にはつらいことがあるから楽しいことがあるっていうのは、嘘かもしれないですね。ただの慰め文句なのかもしれません。
それに、相反するものが共存することは、どうやらおかしいことではありません。僕らからすると、一見不思議なのですが、唯一のものの中に、異なる二つのことを見ることがあります。僕らは、一つのものの中には一つの真実しか詰まっていないと、早合点してしまっています。このことは、冒頭で述べた前提と同じようなことなのですが。いままでの常識はもしかしたら偏見だったのかもしれません。

常識は、いつの時代も、多数決。そういう認識があれば、僕たちの常識が絶対的なものでないことを理解することはできます。人は、安心するために、自分のなかに、ゆるぎないものを築こうとしているように見えます。どんどん柱を丈夫にしていきます。そして、いつかはどんな地震にも耐えうる柱を作ることができると信じています。その柱が太く、丈夫になっていくことに、人は安心を感じます。結構。それはそれですばらしい。でもどれだけ太い柱を作ったら、どんな地震にも耐えられる柱になるのでしょうか。
そこで、僕は逆のことを提案します。僕は柱をとってしまいます。そして、翼を得ることにします。地震は僕のはるか下での出来事です。僕は飛ぶのだー。ぴゅーん。

という、妄想です。夢です。
でも、感じること、ありませんか。あながちこいつは冗談を言うためにこんな文章を書いているわけではないです。

僕がこういうことを言うのは、楽しく生きたいからです。というか、まわりをちゃんと見ると、楽しいし、もっと自由なんです。そういう風にできてるんです、世界は。たぶんね!社会がそうできているのかどうかは、わからないね。。そこが社会に生きる人間の葛藤。それもひっくるめて面白いかもしれませんね!

まぁとにかく飛ぶのだー☆
どうですか?飛べそうですか?


2007/03/16 10:43 | Comments(0) | TrackBack() | the second act
みゅーじく考

音楽はかならずしも音を必要としないと考えたことがあります。いまだにそう思います。

僕は、音楽というものが、実際にだされる音の連続の原因になっている、ひとつの精神活動なのではないかと思います。普通の人は、音楽をあたかも楽曲と同義語のように用いますが。。音楽は、ただ物質や音波として存在するのではなくて、精神と密接にかかわっているのだと僕は信じています。

音として僕らが実際に耳できいているのは、演奏です。

音楽はきくものじゃない。そもそも、音楽それ自体は媒介をもって他人に受け渡したりできるような類のものではないのかもしれません。音楽は演奏の動機というべきものなのかもしれません。作曲や演奏の真下に広がる人間の心そのものが音楽といえるのかもしれません。


僕は少し前まで、ただ音の移り変わりが美しいというだけにすぎない楽曲もあって当然だと思っていました。バロックとかね。だから、たとえばバッハをビブラートをかけて演奏することに疑問を覚えるっていってる人の話を聞いた時に、妙に納得してしまっていました。

でも、最近思うんです、ビブラートをかけるのか、古楽器で演奏するのか、調律を当時のように低くあわせるのか、とかそういうのは、すごく、表面上のことだなって。ただ、その当時の雰囲気を再現しているに過ぎないんじゃないかなって。それが悪いといっているのではなくて、僕も、当時はどういう音を出していたのかっていうことを探るのは面白いと思います。でも音楽家にとって大事なのは、当時の音の再現じゃなくて、バッハっていう人の音楽それ自体なんだと思います。

ビブラートっていう奏法をもしバッハが知ってたら、ビブラート使わせたかもしれないじゃない。

だから、ビブラートをつかってるのか、つかってないのかが大事なんじゃないんです。本当は、作曲家の音楽を理解しようと努力することが重要なんです、たぶん。でも、楽譜だけからそんなことができるのかどうかわかりません。作曲家に関する多少の資料と評論とが手助けしてくれるかもしれませんが、楽譜以上に語ってくれるものは無いのかもしれません。そうなると、演奏者は最後には自分を信じるのだと思います。


そういう、音楽というものを信じると、演奏することがもっともっと楽しくなると思います。書かれている音符はあくまで表面的な表現に過ぎなくて、楽譜という窓の向こうをのぞくことができれば、実際の世界よりも広大で魅力的な精神の世界が広がっているかもしれません。どんな景色が見えるかは、演奏者の音楽しだいです。だから、演奏者によってまったく違った演奏があってしかるべきです。そう、もっと、自由なんです、音楽は。もっと好きにやったらいいんです。



あながち間違ってもいないんじゃないかと思います。


2007/03/15 08:29 | Comments(0) | TrackBack() | the second act

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