音楽はかならずしも音を必要としないと考えたことがあります。いまだにそう思います。
僕は、音楽というものが、実際にだされる音の連続の原因になっている、ひとつの精神活動なのではないかと思います。普通の人は、音楽をあたかも楽曲と同義語のように用いますが。。音楽は、ただ物質や音波として存在するのではなくて、精神と密接にかかわっているのだと僕は信じています。
音として僕らが実際に耳できいているのは、演奏です。
音楽はきくものじゃない。そもそも、音楽それ自体は媒介をもって他人に受け渡したりできるような類のものではないのかもしれません。音楽は演奏の動機というべきものなのかもしれません。作曲や演奏の真下に広がる人間の心そのものが音楽といえるのかもしれません。
僕は少し前まで、ただ音の移り変わりが美しいというだけにすぎない楽曲もあって当然だと思っていました。バロックとかね。だから、たとえばバッハをビブラートをかけて演奏することに疑問を覚えるっていってる人の話を聞いた時に、妙に納得してしまっていました。
でも、最近思うんです、ビブラートをかけるのか、古楽器で演奏するのか、調律を当時のように低くあわせるのか、とかそういうのは、すごく、表面上のことだなって。ただ、その当時の雰囲気を再現しているに過ぎないんじゃないかなって。それが悪いといっているのではなくて、僕も、当時はどういう音を出していたのかっていうことを探るのは面白いと思います。でも音楽家にとって大事なのは、当時の音の再現じゃなくて、バッハっていう人の音楽それ自体なんだと思います。
ビブラートっていう奏法をもしバッハが知ってたら、ビブラート使わせたかもしれないじゃない。
だから、ビブラートをつかってるのか、つかってないのかが大事なんじゃないんです。本当は、作曲家の音楽を理解しようと努力することが重要なんです、たぶん。でも、楽譜だけからそんなことができるのかどうかわかりません。作曲家に関する多少の資料と評論とが手助けしてくれるかもしれませんが、楽譜以上に語ってくれるものは無いのかもしれません。そうなると、演奏者は最後には自分を信じるのだと思います。
そういう、音楽というものを信じると、演奏することがもっともっと楽しくなると思います。書かれている音符はあくまで表面的な表現に過ぎなくて、楽譜という窓の向こうをのぞくことができれば、実際の世界よりも広大で魅力的な精神の世界が広がっているかもしれません。どんな景色が見えるかは、演奏者の音楽しだいです。だから、演奏者によってまったく違った演奏があってしかるべきです。そう、もっと、自由なんです、音楽は。もっと好きにやったらいいんです。
あながち間違ってもいないんじゃないかと思います。