今日のメニューは、ライスS、豚汁、巣篭もり卵、鮭のフライ。豚汁のおいしさに最近気が付いたたろうくんは、味噌汁をたのむのをやめてもっぱら豚汁をたのむようになりました。
今日は午前中は家で調べもの。午後には資源材料系の講義がまっています。食堂には一人で来ました。
食堂の南側はガラス張りのようになっていて、構内のプチ森林が見渡せるようになっています。晴れた日は窓辺で食事をすると気持ちが良いです。
さて、その南側の壁には、上のほうに小さな時計が一つだけ壁にかかっています。学生はみんなそれぞれ時計をもっているから、たいして大きな時計は要らないのでしょう。でも、たろうくんは時計をしません。午後の授業に間に合うようにその時計を見ながら食事です。
時計を見ながら、たろうくんはふと考えました。時計は一回りして同じところに戻ってくるけど、世の中は一回りして戻ってくることはないな、と。時計の上では時間は永遠だけど、人の時間は永遠じゃない。
時計はただひたすら同じ間隔で動き続ける。でも僕たちはどうだろう。元気に走り回ったりもするし、風邪を引けば寝込んでいたりもする。運動しているときも寝ているときも等しく時間は進んでいるんだろうか。等しく老いているんだろうか。
細胞分裂は体がどんな状態であっても等しい速度で行われるのか。それはなさそうな気がする。細胞分裂も化学反応と考えると、化学反応の速度はおそらくガウス分布だろうし、温度などの条件によって変動するに違いない。そうすると、人の老いの速度は確率で決まってくる。
大雑把に言っちゃうと、ひとりひとりの時間間隔は互いに等しくないし、それ一つをとっても一定の間隔ではないのか。人はひとりひとり異なる時間間隔で生活しているのかもしれない。時計は、社会で生活するためのルールの一つなのかも。
でも僕たちの中に時間って言うものがあるとしたら、それは何なんだろう。当然のように時間っていう概念があるように思われているけれど、本当にそんなものがあるのだろうか。僕たちが今まで生きてきた時間、20年という時間、それは何で図ってきたのか。地球と太陽の位置関係だ。僕が生まれてから今まで、地球は太陽の周りを20回まわった。その物理的な太陽と地球の相対関係が、時間というものをあるように見せかけている。
世の中の時間は、光の進む距離と比較して捉えられている。
たとえば、おばあちゃんが編み物を始めた瞬間に、灯台から光が放たれる。しばらくしておばあちゃんが手袋の親指の部分を編み終わる、その瞬間に光が到達した地点までの距離を測る。おばあちゃんは、光が灯台から太陽まで到達する間に手袋の親指の部分だけ編んだ、となる。これは、8分で編んだというのと同じことだ。
時間は、お金やエネルギーと同じようなものなのかもしれない。つまり、光の進む距離を時間というものに換算することで、便利でしょ、ってことだ。
もの思いにふけっていたたろうくん、時計を見直すと1時を過ぎている。もう講義が始まっています。
あわてて食器を返して教室へ走るたろうくん。なにか矛盾を感じつつも。
もしそのような過去があるのだとしたら、その想い出は、あなたにとって冷たくて、とげとげしていて、クモのように気持ち悪くて、とても触りたいとは思わないかもしれない。
しかしその想い出は今この世には存在しない、あなたの頭の中のイメージでしかない。そのイメージにあなたは意味を与えている。そしてその意味に対して、評価をくだしている。
ならば、あなたのその想い出への意味付けを変えることができたのなら、あなたはあなたの過去を変えることができるのかもしれない。想い出への意味づけをしているのは過去のあなたではなくて、今のあなただ。
事実は変わらない。でもあなたの中の過去は変えることができるかもしれない。そもそも、今この時のできごとも、随時あなたが意味づけを行って、それに対して評価をくだしている、その連続ではないか。
ただの慰めでしかない?そうではないと僕は思う。
過去への意味づけが変わるとき、今のできごとへの意味づけも変わらざるを得ない。というかむしろ、そうすることで過去への意味づけを変えることができる。そして、あなたは変わることができる。
ただの遊びだけれど、どうかな、面白くないかな。
古いヒトだからといって馬鹿にはできません。脳容量はホモ・サピエンスよりも大きかったということです。なのになぜネアンデルタール人のほうが絶滅してしまったのか。面白いですね。
まだネアンデルタール人が生きていたころ、ホモ・サピエンスのある一族は彼らのある一族と交流する機会がありました。当時、そのホモ・サピエンスの一族はことばを使っており、着衣もしていました。そのホモ・サピエンスの一族は故郷の森をおわれ、しばらく長い間海辺で暮らしていましたが、事情があって東への長い旅をしていました。
そして、ある海辺でネアンデルタール人たちの集落を見つけました。ホモ・サピエンスの一族は、ネアンデルタール人たちと交流することを試みましたが、ネアンデルタール人たちは、ホモ・サピエンスの一族を恐れました。いままでも、ホモ・サピエンスの一族は、自分たちとは違う(種が同じかどうかは定かではない)一族にしばしば出会ってきましたが、そういうときはもちろん言葉は通じません。彼らは別の方法を用いました。たとえば、自分たちが作った道具を並べて見せてあげる。こういう行為は割りと功を奏したようです。しかし今回のネアンデルタール人にはうまくいきませんでした。
ホモ・サピエンスの一族は、ネアンデルタール人たちの姿や行動などを細かく観察しました。そしてどうやら、彼らは女、子供をまとめておきたがっていることに気づきました。さらに、何か一族の中で意思を伝えたいときは、言葉らしきものを用いるのではなく、身振り手振りを使って伝えるのですが、それにしてはたくさんのことを伝えることができているということに気がつきました。
ホモ・サピエンスの一族が、今の我々とほとんど変わりない精神生活を営んでいることにまず驚くのですが、たとえ言葉が通じなくとも、他の民族と交流を図ろうとしていることが、なんというか、今の世の中では考えられないですね。現在ではホモ・サピエンス以外の種は絶滅しているから1種しかヒトはいないのに、言葉の壁で、文化の壁で、お互いに偏見の名の下に理解しあう努力をおしみ、争ってますね・・・。日本という孤島にすむわれわれの考えがいかに虚しいか、そう悟らざるを得ません。言葉はたいした壁じゃない。言葉をもっているかどうかも。それどころか、種が異なっていてもコミュニケーションは取れるんです!人間中心の世界である、そう考えることは理にかなっていると、僕も信じていましたが、それは別の可能性をまったく捨ててしまっているんですね。
そう、たとえば、ネアンデルタール人はテレパシーに似た方法を使っていたのかもしれない。言葉でなくて、ボディランゲージでもないコミュニケーション能力。われわれは言葉を重く感じすぎています。しかしそれはそういう文化を何千年もはぐくんできたんだから当然です。でも、そのために失ってきたものもあるでしょう。
言葉がないということは、もはや我々にとっては、コミュニケーションすることができません。ペットは、どんなに愛していたとしても、パターン化によって飼いならしているに過ぎません。言葉があるということは、コミュニケーションできる可能性をみせます。たとえば、あなたの目の前に咲くたんぽぽがもし言葉を発したとしたら、あなたはその意思を無視して踏みつけることはできないでしょう。
だけれども、花はしゃべりません。それは我々にとっては幸運なことかもしれません。しかし、言葉ではないコミュニケーションがもし存在するとしたら。我々がそれを知らない、あるいは忘れているだけなのだとしたら。ヒトの君臨する世界という妄想はもろくも崩れ去るでしょう。そして、我が物顔で森林を伐採したり、娯楽で生き物を殺したり、海洋にゴミを投棄したり、ということはしなくなるでしょうね。しかし僕には、それがありそうな話であるような気がしてなりません。我々は世界でただ1種だけ、何も知らないのです。
「この町の広場にはおおきな時計があるんだ。いや、町の広場にはそりゃ時計なんてあって然るべきだが、この町の時計はふつうの時計じゃない。なんていったって、文字盤がほとんど広場と同じくらいの大きさで、広場の真ん中に上を向いて埋め込まれているんだ。だから、わたしたちが広場の時計で時間を知りたいと思ったら、見上げるんじゃなくて覗き込むんだ。こう、床に敷かれたじゅうたんの模様を見るようにね。」
「大きな時計がある広場?それならこの町のちょうど中心にあるぞ。だけれど、その広場には行かないほうがいいぞ。広場に行くといって出て行った旅人は、いまだにだれも帰ってこねぇからな。この町のやつらはだれも広場のことや町の外のことなんて気にしねぇ。それどころか毎日同じところで同じことをしてる。それで満足なんだ俺たちは。お前も広場に行くのか?」
「父の話では、この町は僕たちのご先祖がこの町に住み始める以前からこの場所にこの形であったそうです。あなたが興味をもっている広場の時計も、当時からずっとあったと言われています。僕の祖父もこの町で生まれ、祖父の祖父もこの町で生まれ育ったそうですが、だれも実際に広場まで行ったことはないんですよ。ただ、それでも広場のことを町の人が知っているのは、ごく稀に広場から旅人が帰ってくるからなんです。…。ええ、たしかに広場から帰ってきますよ。でも、その人たちがいったいいつ広場に向かったのか、それどころかいつ外から町にやってきたのか町の人は誰も知らないんです。それに、その人たちの服装はどう見ても今のものじゃない。とても古い服装のように見えるんです。どれくらい古いのかわからないくらい古い。言葉も少しちがうんです。そして、必ずこう言うんです。『ここはどこだ?』って。」
「わたしはもうかれこれ20年、この町に泊り込みで、町で起こっている不思議について研究しております。もちろん、広場の時計のことですよ。あれはただの時計ではありません。それはあなたもおわかりでしょう?知っていますよ、あなたもこの町の人々からいろいろ情報を引き出そうとしているのは。なにか掘り出し物の情報をつかんだら教えてくださいよ。そうですね、わたしも一つ、あなたにお教えしておきましょうか。最近発見したことなのですが、この町の外側、つまり時計の広場から遠い場所に住んでいる住人ほど、早く歳をとるんですよ!わたしが20年間、この町のなかで中央の時計の広場についての情報を集めている間、町の端のほうでは、20年前わたしより若かった青年がすでに孫を残してこの世をさっていたのですよ。わたしは結婚してはいますがまだ孫なんて歳じゃないのに。やはりこの町、なにかありますよ。この謎を解くまでは、国には帰れませんね。」
「町の端のほうには行ったことがあるかって?いや、だって、井戸はすぐそこにあるし、わざわざそこまで行かなくても生活できるんだよ。もちろん内側にも行かなくていいんだ。外から来る人はみんな僕たちの生活が不思議だって言うけど、僕たちは何世代もこうやってきたんだ。だから不思議なことなんて無いんだよ。」
「お若いの、おぬしもこの町の神秘に気がついたのか?何十年か前、おぬしのように、この町に興味をもった若者が外からやってきての、時計の広場に行けば全てわかるといって勇んで行きおった。けれど、まだ帰ってはこんのじゃ。その若者とは別に、何年かに1度、古めかしい格好をした者が町の中心の方からやってくることがある。彼らは決まってとても不思議そうな顔をしてこの町並、そして住人を眺めるんじゃ。そして、ここはどこだ?と必ず聞く。ここは時計の広場がある町だと言うと、なにかを悟ったかのように、なにも言わず町のはずれのほうにむかって歩いていってしまう。彼らが悟ったような顔をみせたとき、どこか寂しさもにじませておったのう。彼らがいったい何者なのか、町の中心部に住む者たちなのか、それとも町の外からやってきた旅人なのか、誰にもわからんのじゃ。みんな、初めてみる顔なのじゃ。そうじゃ、なにかの助けになればいいがな、わしのおじいさんがまだ若いころは、町には厳しい掟があったそうじゃよ、内にも外にも求めてはいけない。とな。覚えておくと、良いかも知れんな」
「そう、その青年はたしかカリナと言いました。この町の青年ではありません。何十年も前?いえ、数年前だったと記憶していますが。彼は、時計の広場に行きたいと言っていました。なんでもこの町の不思議が解けるだとかなんとか。わたしは生まれてこの方30年はこの町で暮らしていますが、そんなに不思議な町には思えませんがねぇ。よほど退屈な生活をしていたんですかねぇ。あなたも広場に行きたい?そうですか。聞いた話だと、この道をずっとまっすぐで、広場に着くみたいですよ。」
「カリナさん?つい先日広場への道を尋ねていかれましたよ?ちょうどあなたと同じくらいの歳の。」
変わらぬ町並み、人、空。見た目にはなんの不思議も無い。ありふれた町。一つだけ違うもの、それは、目の前に広がるとてつもなく大きい、時計。広場と一体化していて、文字盤の上を歩くことができる。そして気づく。時計の上にいる人たちは静止している。あからさまに異常な光景に、走って近づく、すると、みんな動き出す。それでも、止まったままの人もいる。それは時計の針を固定している軸に腰掛けている青年だ。ピクリとも動かない。いまさら気がついたが、時計は動いていない。その青年に話しかけるべく、時計の中心にむかった。
「キミも、この町の不思議に心惹かれてしまったみたいだね。この町は外の世界とは違うんだ。でも、町に住んでいる人はそのことを知らずに生きている。知らなくても生きていけるように、昔町に住んでいた人たちが戒律を作ったんだ。内にも外にも求めるなって。だから人は自分のごく周囲で全ての生活が完了するようにした。何世代もそうしていれば当たり前になってしまうんだね。だからこの広場の周囲にいるのは、そんな生活には慣れていない旅人か、大昔からこの周囲に住んでいる町の住人か、戒律がまだできる前の町の住人かということになるんだ。きみは気づいていたのかな。この広場の時計はこの町の時間の中心なんだ。時間は中心から同心円状に広がっていて、町のはずれでは町のそとの時間とほとんど等しい。でも時計の中心、そう、ここだね、ここは時間の中心なんだ。時間の中心では人は永遠に時間の中にいることができる。時が止まっているからね。だから、ちょっと離れて僕を見てごらん。僕はキミから止まったように見えるだろう。もっと離れてみると、時計の中心近くにいる人も止まってみえるかもしれないね。でも僕たちは今こうやって止まらずに会話することができるのは、時間は相対的なものだからなんだ。ここでは僕とキミの時間はほとんど一緒に流れてる。でもキミが時計の中心からすこしずれると、キミの時間は僕の時間よりも早く進むんだ。だから僕がとまっているように見える。そういうことなんだ。さっき、戒律がまだできる前の町の住人もいるって言ったろ?この町ではそういうことが起こりうるんだ。実際、僕もさっきこの広場に着いたばかりなんだ。僕がここに座って何時間もしないうちにキミは僕のところにやってきたよ。どういうことか。キミは信じないかもしれないが、僕たちが話し始めてからもう外の世界では100年は時が進んでしまっているだろうね。それは、僕らの時間の進み具合に対して外の世界の時間の進み具合がとても早いからなんだ。そうそう、どうして町に戒律ができたかわかったかい?昔は町の人も時計の広場に足を運んだりしたんだろう。そして家に帰ってみると、数百年後の世界で、べつの家族が住んでいる。そんな悲しいことが二度と起こらないように、そんな心境だっただろうね。まぁ、どこにいたって一人が生きる時間は同じなんだ。呆然とする気持ちもわかるけれど、生きていくしかないだろう?どう生きるかはキミの自由だ。キミが自分の人生を作るんだよ。時間はもともと相対的なものなんだから。」
哲学、というと、古代ギリシャの神殿をプラトンとアリストテレスが並んで歩いている、あのラファエロの絵を思い起こすでしょうか?←名前あってるかな?笑
まぁ、どうでもいいんですが。
自分の人生は自分が作る。と僕は思うのですが、みなさんはどう考えますか?
みなさんはどうなのかわかりませんが、自分の人生なのに、自分で作るっていうことを忘れていることが多いということを最近感じます。それは、自分の世界を自分で作ることをしていないっていうことです。
当然ながら、世界を感じているのは自分であって、それ以外はありえません。ご存知のとおり、その世界を自分が感じ取り把握するために必要なのは、五感と、脳です。それらプラス、心と言っておこうと思います。
たとえば目に入ったある種の振動(光)は、たぶん網膜で電気信号に変わり、視神経をつたって脳までいき、脳の視覚情報を処理する場所で僕たちが認識できる”画像のようなもの”に変換されます。こういうことが体のあちこちでおこっていて、それらを複合的に判断し、世界を把握するわけですが、話はそれで終わりません。
まず、目に入ってくる光をキャッチする網膜の細胞は、その遺伝子のために個人によって千差万別です。赤色を感知しやすい人もいれば、青を感知しやすい人もいるかもしれない。夜目がきく人もいれば、鳥目の人もいる。このように個人によって違うわけです。そして、視神経にも同じようなことが言える。丈夫な神経だったり弱い神経だったり、それは本当に微小な違いでしょうが、わたしたちの目は数百ナノメートルという光を扱い、細胞よりも小さい電子に変換しているわけですから、微小の違いでも無視することはできません。そしてもっとやっかいなのが、脳での情報処理です。それは、間違いなく、その人個人の経験とかそういうものと密接に絡み合っていますから、たとえ同じ目と、神経をもっていたとしても、ここにきて画像がはたして同じように再現されるかというと、疑問なわけです。
と、長くなりましたが、そういうわけで、人が見る世界は千差万別なんです。それは色とか形とかだけではなく、なにか物がそこに在るか無いかという重大なことにまでかかわってきます。その簡単な例は、カーボン60です。
カーボン60というのは、比較的最近発見された化学物質の名前です。温暖化で有名になった二酸化炭素、その二酸化炭素の分子一つに炭素原子が二つ使われていますが、このカーボン60の分子一つにはなんと炭素原子が60個も使われています。それらがサッカーボールのような形をとるという、おもしろい形をした分子です。これを最初に発見した3人の学者はノーベル化学賞を受賞しています。
その発見に際して面白い話があります。
ある工学系の教授がそのサッカーボール状の分子が発見されたという話を聞いてから自分のファイルに入っていた電子顕微鏡の写真を見てみたら、なんとすでにカーボン60が映っていたそうです。しかし、教授はその存在に気づかなかった。見えていても、その教授の世界には存在しない分子だったため、”無かった”んです。
つまりこういうことが、僕が言いたいことの一つです。”無いもの”は無い。
逆の発想をすると、”在るもの”はどうなのか、という疑問が当然出てきます。しかし、もう答えは書いてあります。もう一度わかりやすく書くと、そのカーボン60を発見した3人の学者こそが、”在るもの”は在る、ということを物語ってくれています。つまりその学者たちは、炭素原子が60個つながってボール状になっている分子があるはずだ、という頭で探していたわけです。でも、彼らはたしかに予想が的中するという幸運に恵まれたということも言えます。だから、正確さを求めて言うなら、”在るもの”は在るかもしれない、と、こうなります。
僕は、そのことはとても大切なのだと思います。あきらめず、在るのだと信じていれば、それは在るかもしれないではないですか。物質的なことに限らずね。でも、無いのだと思ったら俄然無いのです。生きて、経験をつんでいくうちに、世の中をわかったような気になってしまいがちです。でも、経験を生かしつつ、柔軟な人間になることは不可能ではないのだと思います。
どうでしょうか?