ユウスケは電車にゆられている。先ほどまでの焦りはもうない。
開演は14:00。現在13:55。
…。
地下にもぐりこんでいる駅の出入り口から出、会場に行く途中で出演者の千先輩と上戸にお決まりどおりに差し入れを買うことにした。どちらにしろもう開演には間に合わないのだから。。
高校時代、一緒のステージに乗っていたときの差し入れはなぜか「リポD」と決まっていた。が、しかし、もう僕らもハタチを過ぎた。今回は「ウコンの力」にしておこう。ユウスケはウコンの力を2本買った。これからはこれが定番になっていくのかもしれない。
駅から会場までは近かった。走って5分くらいだろうか。きれいに舗装され一車線程度の幅がある歩道は、走ると少し気持ちよかった。大きな川に架かる橋をわたり歩道橋をこえると、すぐ目の前に第一生命ホールのある建物が待ち構えている。やたらでかい。。野外に動く歩道がある。。ここまでくると、もしかしたら間に合うかもと思ってしまう。間に合わないのに。とにかくエスカレーターでホールの入り口に急いだ。まぁ、間に合わなかったが。
出演者の上戸にチケットをお願いして、受付ちかくに用意してもらっていた。チケットの受付のお姉さんからチケットが入っているはずの茶封筒を受け取るとなぜか少しずっしりときた。見た目も少し膨らんでいる。
「お土産も入ってるみたいですよ。」
受付のお姉さんが少し笑いながら教えてくれた。この人、上戸と仲良いのかな。とか思いながらユウスケも少し笑って答えた。封筒を開けると、横幅ぴったりに収まっている手のひらに乗るくらいの時計と、いままさに演奏が始まろうとしている演奏会のチケットが2枚入っていた。
その時計の横幅のぴったり具合に、このようにうまく封筒の中に時計を収めようとしてる上戸を想像してしまって少し笑ってしまった。ユウスケがこの時計を手に取り眺めるためには封筒を破るほか無かったので、時計は帰ったらじっくり見ることにし、開演に間に合わなかった人のためのモニターの前にできている集団に加わることにした。やはり遅れたら休憩時間にならないと客席には入れてもらえないらしい。
オープニングはこれにふさわしいロッシーニのウイリアムテルだ。この曲は頭に聞かせどころがくる。チェロ…。そしてトロンボーン吹きは少し期待してしまう嵐の場面。ちなみに千先輩も上戸もトロンボーンだ。このオケでは千先輩はユウスケと同じバストロンボーンを演奏している。先輩の音は、きれいだし、安心して聞ける。大学に入って自分も少しは成長したが、やっぱりまだ千先輩にはかなわないかな…とユウスケは感じた。同時に自分も楽器を吹きたい衝動にかられた。
このオケはどうやら指揮者もアマチュアらしい。こんなことを言うと怒られてしまうかもしれないが、指揮者がひっぱっているというよりは、みんなで作っているという感じがした。でもフィナーレへのもって行き方は面白かった。そして盛り上がって曲が終わる!会場では拍手喝采!モニターの前には微妙な雰囲気が漂う。ユウスケは拍手しそうになったが、少し空気を読んだ。
2曲目のハイドンのホルンなんたらという30~40分の曲がのったりと画面の向こうで演奏されている中、ユウスケは考えていた。このハイドンの曲ではホルンがハイトーンを何度も吹くのだが、ことごとくはずしていたのだ。「音を出す」ということは「音楽」の本質ではないとユウスケは考えていたので、べつにホルンが何度音をはずそうが知ったことではなかったのだが、ひとつわかったことがあった。原形をとどめないほどに音をはずすのは、その音楽を聴く上でどうしても障害になる。…当たり前の命題をひとつ発見した。それにつけて、オケの出す音もあまり面白いと思わなかった。古い音楽ほど、純粋に演奏しなければいけないのかもしれない。このことは、オケの曲を日本人の本能で演奏してしまうと何かが違う、という話に似ているのかもしれない。つまり、ヨーロッパ人によって作られたこれらの曲や楽器はいわばヨーロッパ人が演奏したときに最適になるように作られているという考え方ができるのではないかということである。古い楽曲はその当時の人々の感性や、楽器の特徴、奏法に合わせて作られているはずである。
ちょっとわき道にそれるが、料理は地域に伝統的な形が存在する場合があるが、これが他の国へ輸出され時を経たとき、まったく同じ形で保存されているということはまずないだろう。たとえば、中国の焼きそばはもっぱら塩味であるが、日本ではソース焼きそばも塩と同じくらい食べられる。これほど顕著ではなくとも現地の人に合った味付けや調理のしかたに少しずつシフトしていくのは当然であると思う。音楽にもこれが言えるだろう。
だから、こういう問題はひとつの要素だけでは一概に良い悪いは言えないのだと思う。楽曲は従来のために作られているという考えと、料理と同じように、時と場所が変われば音楽も変化していくものであるという考えの二つ、あるいはまた違う考えもあるかもしれないが、それらのうちどれが間違っていて…という話ではないだろう。そのなかでどうするか、ということなんだと思う。
そんなことを考えている間にハイドンが終わってしまった。次はブラームス。これを聞くために来たんだ。
ハイドンが終わりステージの照明がおちた。アナウンスで休憩時間が告げられている。黒いスーツをきた男が2人、モニター前の集団へ近づいてきた。きっとかれらが誘導してくれるのだろう。とユウスケは思った。
新しい小説の形です。でも完全にフィクションでもないという。
教授の真似事ですw