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2025/04/29 21:11 |
川北氏
人生とはその人の考えたとおりのものである。自分がこうなりたいと思う姿を思い描いている人は、その望みが心底真実であれば、そのような人生を手に入れることができるのだ。こういうと、たいていの人は首を横に振る。思ったとおりになんかなっていないというのである。しかし本当にそうだろうか。

「そうさ、自分は音楽家になりたかった。だがご覧のとおりのしがないサラリーマンだ」

「じゃあ聞くが、君は今もずっと音楽家志望なのか」

「まさか。もうこの歳でなれるわけが無い」

「いつ断念したのだ」

「高校受験で音楽学校を受けて落っこちたときだ」

「だったら君がそう思ったのは、はるか昔の一時期だけじゃないか」

「そうだけど思ったとおりにはなってないじゃないか」

「違うね。僕が言うのはそういうことじゃないんだ。君は人生を思い通りにならないと思ってる」

「そうさ」

「だから、思ったとおりの人生を手に入れている。思い通りにならないという人生観ぴったりの人生をさ」

…(中略)…

自分の願望を思い続けることはそう簡単ではない。ほとんどの人は続かない。だから実現しないのだ。思い続けない人が「思い続けてもダメだ」とどうして言えるのか。世の中には思い続けて望みを実現した人もたくさんいるのだ。いかなる人生もその人の考えた所産なのである。

γγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγγ

この話には勇気とやる気を与えられる。諦めないかぎり、少なくとも希望をもって何かに取り組むことができる。諦めたらもうそれは「無い」んだ。

だれか、昔の人で、おまえはキリスト教を信じるか、という質問に対して、

「もしキリスト教を信じなくて神様が実在した場合よりも、キリスト教を信じて神様が実在しなかったときのほうがいくらか良い」

って言ってキリスト教徒になった人がいた気がするが、

あ…?

関係ないか。


じゃあ、冒頭の話と関係するようなことを、19世紀のアメリカの心理学者(哲学者でもある)が言っているので紹介しようと思う。

“われわれのもつ可能性に比べると、現実の我々はまだその半分の完成度にも達していない。われわれは、肉体的・精神的資質のごく一部分しか活用していないのだ。概して言えば、人間は、自分の限界よりも、ずっと狭い範囲内で生きているに過ぎず、いろいろな能力を使いこなせないままに放置しているのである。”ウィリアム・ジェームズ

20世紀の老人学者も面白いことを言っていると思う。

“老化の75%は自己願望の現れである”アレックス・カムフォート

実は、リンカーンも肯定的に次のようなことを言っている。

“およそ人は、幸福になろうとする決心の強さに応じて幸福になれるものだ”

シューマンは、『音楽の座右名』の中で、“山の向こうにも人はいる…”と言ったが、まったくそのとおりだと思う。地理的にだけでなく、時間的にも人は地球上のいたるところに住んで、いろんなことを考えている。人類が10万年の昔からいままで考えてきたことと、人一人をつくっている原子の数と、どちらが多いのだろう。

僕が思ったのは、自分が今悩んでいることなんて、人類の歴史を振り返ると、何千何万人という人が同じようなことを悩んで、何万何億人という人が、それよりももっと深刻な悩みをもっていたんだろうということ。それを今になってまた悩むのもいいけど、悩んでいる暇は意外と無いな、という、気がする。探せば情報はいくらでもある時代。土台は出来上がっている。どう生きるかは僕次第だ。
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2007/06/20 05:36 | Comments(0) | TrackBack() | the second act
人の中で生きる
「名前とは、人が聞いて一番心地よいと思う響きを持った言葉であることを忘れてはならない。」デール・カーネギー


この言葉は、単に、社会で成功する秘訣を教えようとしているものかもしれません。

人は誰だって、名前を覚えてもらったらうれしいもの。名前を呼ばれた瞬間、少なくともその一瞬は、人は自分を必要としてくれているのだと感じるのだと思います。そういう無意識の心の動きが、人間関係をスムーズにするのに一役かっているのかもしれません。

相手の名前を呼んであげることで、相手に「自分はこの人にとって必要な人間なんだ」と思ってもらうんです。人は自分を必要としてくれる人には大なり小なり尽くそうとするかもしれません。人は一人では弱いから、自分の存在している意味を見出そうとする。それは生きているというのと同じ意味かもしれない。だから、誰かに必要とされれば、そこに自分が生きる意味がそのひと時みつかる。人は安心するんでしょう。それが無意識の元で行われているにしても。

しかし、そういうことは、誠意をもって相手に接することによってはじめて見られるのだと、カーネギーは言っています。



また、カーネギーの言葉は、「人とは結局のところ、利己的なんだ」ということを含んでいるように思われます。

人はだれでも、自分を必要としている人を、自分の話を1分でもいいから聞いてくれる人を、自分の話の半分にでもいいから賛成してくれる人を、探しているんだと思います。ミクシーなんて、そのいい例です。笑

人は、自分を見て欲しいんです。常にそう欲している。だから、自分を見てくれる人とは仲良くやろうとする。そうでない人とは仲良くしようとしない?自分の話を聞いてくれない人に好感がもてますか?

「あいつは自分の考えばかり言って人の話を聞かない」と不満を言うのは、つまり、「俺のありがたい話を聞け」、と言っているのと同じかもしれません。そういう発言から、その人の利己的な部分を実は見ることができるのだと思います。

しかし、人はそういうものだと思います。別に汚いことではないと。でも、誰にでもわかることがあります。それは、自分の話を聞いて欲しいのは、みんな一緒だということ。もし、自分の話を聞いてもらいたいのなら、相手の話を先に聞いてあげたらいいじゃないか、ということです。それでうまくいくのなら、数分間、自分の話を切り出すのが遅くなっても、我慢すべきではないでしょうか。


2007/06/15 08:34 | Comments(0) | TrackBack() | the second act
たろうくんの時間
たろうくんは学校の食堂で昼食をとっています。

今日のメニューは、ライスS、豚汁、巣篭もり卵、鮭のフライ。豚汁のおいしさに最近気が付いたたろうくんは、味噌汁をたのむのをやめてもっぱら豚汁をたのむようになりました。

今日は午前中は家で調べもの。午後には資源材料系の講義がまっています。食堂には一人で来ました。

食堂の南側はガラス張りのようになっていて、構内のプチ森林が見渡せるようになっています。晴れた日は窓辺で食事をすると気持ちが良いです。

さて、その南側の壁には、上のほうに小さな時計が一つだけ壁にかかっています。学生はみんなそれぞれ時計をもっているから、たいして大きな時計は要らないのでしょう。でも、たろうくんは時計をしません。午後の授業に間に合うようにその時計を見ながら食事です。

時計を見ながら、たろうくんはふと考えました。時計は一回りして同じところに戻ってくるけど、世の中は一回りして戻ってくることはないな、と。時計の上では時間は永遠だけど、人の時間は永遠じゃない。

時計はただひたすら同じ間隔で動き続ける。でも僕たちはどうだろう。元気に走り回ったりもするし、風邪を引けば寝込んでいたりもする。運動しているときも寝ているときも等しく時間は進んでいるんだろうか。等しく老いているんだろうか。

細胞分裂は体がどんな状態であっても等しい速度で行われるのか。それはなさそうな気がする。細胞分裂も化学反応と考えると、化学反応の速度はおそらくガウス分布だろうし、温度などの条件によって変動するに違いない。そうすると、人の老いの速度は確率で決まってくる。

大雑把に言っちゃうと、ひとりひとりの時間間隔は互いに等しくないし、それ一つをとっても一定の間隔ではないのか。人はひとりひとり異なる時間間隔で生活しているのかもしれない。時計は、社会で生活するためのルールの一つなのかも。

でも僕たちの中に時間って言うものがあるとしたら、それは何なんだろう。当然のように時間っていう概念があるように思われているけれど、本当にそんなものがあるのだろうか。僕たちが今まで生きてきた時間、20年という時間、それは何で図ってきたのか。地球と太陽の位置関係だ。僕が生まれてから今まで、地球は太陽の周りを20回まわった。その物理的な太陽と地球の相対関係が、時間というものをあるように見せかけている。

世の中の時間は、光の進む距離と比較して捉えられている。
たとえば、おばあちゃんが編み物を始めた瞬間に、灯台から光が放たれる。しばらくしておばあちゃんが手袋の親指の部分を編み終わる、その瞬間に光が到達した地点までの距離を測る。おばあちゃんは、光が灯台から太陽まで到達する間に手袋の親指の部分だけ編んだ、となる。これは、8分で編んだというのと同じことだ。

時間は、お金やエネルギーと同じようなものなのかもしれない。つまり、光の進む距離を時間というものに換算することで、便利でしょ、ってことだ。


もの思いにふけっていたたろうくん、時計を見直すと1時を過ぎている。もう講義が始まっています。

あわてて食器を返して教室へ走るたろうくん。なにか矛盾を感じつつも。

2007/05/25 00:37 | Comments(0) | TrackBack() | the second act
過去?
もし過去を変えることができるとしたら、あなたには変えたい過去があるだろうか。

もしそのような過去があるのだとしたら、その想い出は、あなたにとって冷たくて、とげとげしていて、クモのように気持ち悪くて、とても触りたいとは思わないかもしれない。

しかしその想い出は今この世には存在しない、あなたの頭の中のイメージでしかない。そのイメージにあなたは意味を与えている。そしてその意味に対して、評価をくだしている。

ならば、あなたのその想い出への意味付けを変えることができたのなら、あなたはあなたの過去を変えることができるのかもしれない。想い出への意味づけをしているのは過去のあなたではなくて、今のあなただ。

事実は変わらない。でもあなたの中の過去は変えることができるかもしれない。そもそも、今この時のできごとも、随時あなたが意味づけを行って、それに対して評価をくだしている、その連続ではないか。

ただの慰めでしかない?そうではないと僕は思う。
過去への意味づけが変わるとき、今のできごとへの意味づけも変わらざるを得ない。というかむしろ、そうすることで過去への意味づけを変えることができる。そして、あなたは変わることができる。



ただの遊びだけれど、どうかな、面白くないかな。

2007/05/19 03:23 | Comments(0) | TrackBack() | the second act
ネアンデルタール人はテレパシーを使えたか
ネアンデルタール人といえば、2万数千年前に絶滅したヒト属として知られていますが、正式名称はホモ・ネアンデルターレンシス。ホモ・サピエンスとは別の種であることがわかっているようです。

古いヒトだからといって馬鹿にはできません。脳容量はホモ・サピエンスよりも大きかったということです。なのになぜネアンデルタール人のほうが絶滅してしまったのか。面白いですね。

まだネアンデルタール人が生きていたころ、ホモ・サピエンスのある一族は彼らのある一族と交流する機会がありました。当時、そのホモ・サピエンスの一族はことばを使っており、着衣もしていました。そのホモ・サピエンスの一族は故郷の森をおわれ、しばらく長い間海辺で暮らしていましたが、事情があって東への長い旅をしていました。

そして、ある海辺でネアンデルタール人たちの集落を見つけました。ホモ・サピエンスの一族は、ネアンデルタール人たちと交流することを試みましたが、ネアンデルタール人たちは、ホモ・サピエンスの一族を恐れました。いままでも、ホモ・サピエンスの一族は、自分たちとは違う(種が同じかどうかは定かではない)一族にしばしば出会ってきましたが、そういうときはもちろん言葉は通じません。彼らは別の方法を用いました。たとえば、自分たちが作った道具を並べて見せてあげる。こういう行為は割りと功を奏したようです。しかし今回のネアンデルタール人にはうまくいきませんでした。

ホモ・サピエンスの一族は、ネアンデルタール人たちの姿や行動などを細かく観察しました。そしてどうやら、彼らは女、子供をまとめておきたがっていることに気づきました。さらに、何か一族の中で意思を伝えたいときは、言葉らしきものを用いるのではなく、身振り手振りを使って伝えるのですが、それにしてはたくさんのことを伝えることができているということに気がつきました。

ホモ・サピエンスの一族が、今の我々とほとんど変わりない精神生活を営んでいることにまず驚くのですが、たとえ言葉が通じなくとも、他の民族と交流を図ろうとしていることが、なんというか、今の世の中では考えられないですね。現在ではホモ・サピエンス以外の種は絶滅しているから1種しかヒトはいないのに、言葉の壁で、文化の壁で、お互いに偏見の名の下に理解しあう努力をおしみ、争ってますね・・・。日本という孤島にすむわれわれの考えがいかに虚しいか、そう悟らざるを得ません。言葉はたいした壁じゃない。言葉をもっているかどうかも。それどころか、種が異なっていてもコミュニケーションは取れるんです!人間中心の世界である、そう考えることは理にかなっていると、僕も信じていましたが、それは別の可能性をまったく捨ててしまっているんですね。

そう、たとえば、ネアンデルタール人はテレパシーに似た方法を使っていたのかもしれない。言葉でなくて、ボディランゲージでもないコミュニケーション能力。われわれは言葉を重く感じすぎています。しかしそれはそういう文化を何千年もはぐくんできたんだから当然です。でも、そのために失ってきたものもあるでしょう。 


言葉がないということは、もはや我々にとっては、コミュニケーションすることができません。ペットは、どんなに愛していたとしても、パターン化によって飼いならしているに過ぎません。言葉があるということは、コミュニケーションできる可能性をみせます。たとえば、あなたの目の前に咲くたんぽぽがもし言葉を発したとしたら、あなたはその意思を無視して踏みつけることはできないでしょう。

だけれども、花はしゃべりません。それは我々にとっては幸運なことかもしれません。しかし、言葉ではないコミュニケーションがもし存在するとしたら。我々がそれを知らない、あるいは忘れているだけなのだとしたら。ヒトの君臨する世界という妄想はもろくも崩れ去るでしょう。そして、我が物顔で森林を伐採したり、娯楽で生き物を殺したり、海洋にゴミを投棄したり、ということはしなくなるでしょうね。しかし僕には、それがありそうな話であるような気がしてなりません。我々は世界でただ1種だけ、何も知らないのです。

2007/05/09 01:39 | Comments(0) | TrackBack() | the second act

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