量と質。
みなさんはこの二つの概念をお持ちでしょうか。
よく、量より質、といったりしますが、これは、この二つの概念が相反するものであることを前提としています。
このように、二つの異なる概念をもってきて、それについて物事を対比させることを人はよくやります。
量と質、良いと悪い、損と得、意思か偶然か。。。
それは悪いことでも良いことでもなく、当然のことだと思われます。
しかし、すごく紛らわしいことがここで起こっていると感じます。上記のように二つの概念をもってくるときに、その二つの概念が、まったく異なる概念だという前提を、僕たちは無意識に作っているのです。そうしなければ比べることはできません。
さて、本題に入ってきますが、それらがまったく異なる概念であるということが無意識に前提とされてしまうと、多少困ったことが生じてくるような気がします。それは、それら二つの概念を各々の点として捉えてしまうということです。しかもその点は、思考の対象としている空間の端と端に存在する点なのです。
どんな言葉が適切なのか僕も良くわからないし、抽象的に書いているので、なにを言いたいのかわからないかもしれませんが、とりあえず読み進めてください。
でももしかしたら、それらの概念は点ではなく、お互いに結びつく線なのかもしれません。
量と質は、量という点と、質という点ではなく、量でも質でもないべつの何かの線のうえにあるんじゃないかということです。それらは相反しますが、実は、同じ物なのだという気がします。量も、質も、同じなんです。もっと正確にいうと、同じ要素を含んでいるんだということになります。量と質が一見違って見えるのは、その要素の割合と個数の問題なのです。
わかり易い例があります。僕は農学部なのでそれらしいことを。。
元素はどうやら陽子の個数で性質が決まるらしいです。1個なら水素、2個ならヘリウム、3個ならリチウム、?個ならウランというように。量で質が決まっていることが見られる、身近な例だと思います。つまり量と質は同じ概念なんです。
また、光は波であり粒子である。ということも、覆せてはいません。
例として、量と質について見てみましたが、僕たちが普段使っている概念がすべてそうなのだという気がします。好きなのと嫌いなのも一緒なんですね、おそらく。そう考えると面白くないですか?もっと世界が自由に見えてきませんか?楽しいのもつらいのも同じ概念なんです。世の中にはつらいことがあるから楽しいことがあるっていうのは、嘘かもしれないですね。ただの慰め文句なのかもしれません。
それに、相反するものが共存することは、どうやらおかしいことではありません。僕らからすると、一見不思議なのですが、唯一のものの中に、異なる二つのことを見ることがあります。僕らは、一つのものの中には一つの真実しか詰まっていないと、早合点してしまっています。このことは、冒頭で述べた前提と同じようなことなのですが。いままでの常識はもしかしたら偏見だったのかもしれません。
常識は、いつの時代も、多数決。そういう認識があれば、僕たちの常識が絶対的なものでないことを理解することはできます。人は、安心するために、自分のなかに、ゆるぎないものを築こうとしているように見えます。どんどん柱を丈夫にしていきます。そして、いつかはどんな地震にも耐えうる柱を作ることができると信じています。その柱が太く、丈夫になっていくことに、人は安心を感じます。結構。それはそれですばらしい。でもどれだけ太い柱を作ったら、どんな地震にも耐えられる柱になるのでしょうか。
そこで、僕は逆のことを提案します。僕は柱をとってしまいます。そして、翼を得ることにします。地震は僕のはるか下での出来事です。僕は飛ぶのだー。ぴゅーん。
という、妄想です。夢です。
でも、感じること、ありませんか。あながちこいつは冗談を言うためにこんな文章を書いているわけではないです。
僕がこういうことを言うのは、楽しく生きたいからです。というか、まわりをちゃんと見ると、楽しいし、もっと自由なんです。そういう風にできてるんです、世界は。たぶんね!社会がそうできているのかどうかは、わからないね。。そこが社会に生きる人間の葛藤。それもひっくるめて面白いかもしれませんね!
まぁとにかく飛ぶのだー☆
どうですか?飛べそうですか?
音楽はかならずしも音を必要としないと考えたことがあります。いまだにそう思います。
僕は、音楽というものが、実際にだされる音の連続の原因になっている、ひとつの精神活動なのではないかと思います。普通の人は、音楽をあたかも楽曲と同義語のように用いますが。。音楽は、ただ物質や音波として存在するのではなくて、精神と密接にかかわっているのだと僕は信じています。
音として僕らが実際に耳できいているのは、演奏です。
音楽はきくものじゃない。そもそも、音楽それ自体は媒介をもって他人に受け渡したりできるような類のものではないのかもしれません。音楽は演奏の動機というべきものなのかもしれません。作曲や演奏の真下に広がる人間の心そのものが音楽といえるのかもしれません。
僕は少し前まで、ただ音の移り変わりが美しいというだけにすぎない楽曲もあって当然だと思っていました。バロックとかね。だから、たとえばバッハをビブラートをかけて演奏することに疑問を覚えるっていってる人の話を聞いた時に、妙に納得してしまっていました。
でも、最近思うんです、ビブラートをかけるのか、古楽器で演奏するのか、調律を当時のように低くあわせるのか、とかそういうのは、すごく、表面上のことだなって。ただ、その当時の雰囲気を再現しているに過ぎないんじゃないかなって。それが悪いといっているのではなくて、僕も、当時はどういう音を出していたのかっていうことを探るのは面白いと思います。でも音楽家にとって大事なのは、当時の音の再現じゃなくて、バッハっていう人の音楽それ自体なんだと思います。
ビブラートっていう奏法をもしバッハが知ってたら、ビブラート使わせたかもしれないじゃない。
だから、ビブラートをつかってるのか、つかってないのかが大事なんじゃないんです。本当は、作曲家の音楽を理解しようと努力することが重要なんです、たぶん。でも、楽譜だけからそんなことができるのかどうかわかりません。作曲家に関する多少の資料と評論とが手助けしてくれるかもしれませんが、楽譜以上に語ってくれるものは無いのかもしれません。そうなると、演奏者は最後には自分を信じるのだと思います。
そういう、音楽というものを信じると、演奏することがもっともっと楽しくなると思います。書かれている音符はあくまで表面的な表現に過ぎなくて、楽譜という窓の向こうをのぞくことができれば、実際の世界よりも広大で魅力的な精神の世界が広がっているかもしれません。どんな景色が見えるかは、演奏者の音楽しだいです。だから、演奏者によってまったく違った演奏があってしかるべきです。そう、もっと、自由なんです、音楽は。もっと好きにやったらいいんです。
あながち間違ってもいないんじゃないかと思います。
芸術ではよく、「崩す」といいます。たぶん。
型にはまっているままではまだ青いっていうことなんだと思いますが、ただ崩すのではなくて、自分風に崩す、といいますか、自分色をだすっていうことなんでしょうね。周知だと存じます。
僕にとっては、型をみつけるのが大変で。。
なにごとも真似することから始まるのはそういうことなんだと思いますが、ただ真似をしてもそれは型を見つけることではないのだと思います。
若い画家は模写っていうことをするみたいです。巨匠の絵画を目に焼き付けて、むしろ心に焼き付けているのかもしれませんが、その後その絵を目の前の白紙の紙に描いていくという、そういう練習?
これは、絵画の分野では確立されたことなのだという気がします。ただ巨匠の絵を鉛筆でなぞるだけではないのです。ここがミソです。心に巨匠の絵画の情報を焼き付けていますので、ここから、模写する画家の中で、絵画を再構築する必要があります。その過程はもしかしたら、巨匠がその絵画を書くときの心境をなぞることに近いのかもしれないと、思いました。これは、結果から原因を探るということを、やっているのです。
とはいっても、僕が実際にやったわけではないので、想像ですけどね。
真似をするってこういうことなのかな、と思います。型を見つけるってこういうことなのかな。
僕が書いていることも、「結果」です。あなたが発言することも「結果」です。でもそれらには必ず理由か背景があります。それは必ずしも表面に現れてきませんし、言葉で通じ合えるものとも限りません。その場、その時で、受け取る人が考えなければなりません。でも、知ろうとしなければ、そんな問すら存在しません。
なにも芸術だけに言えることではないのだと信じています。
型にはまり、そして型からでる。という芸術を会得するひとつの手法と、僕の考えていることの一致するところをみつけました。過去を知り、現在の自分の行いを決めるという、ことです。過去があって、今がある、今僕らはなにをするのか。でも、僕がちゃんと芯をとらえているのか、ちょっと不安です。
最近そんなことばかり考えていますね。そろそろ社会に出る時期が近づいてきたからなんでしょうか、早く答えを出してしまいたいとどこかで思っているのかもしれません。あせらなくてもいいのはわかっているのですが、若いので仕方ないのだと思います。役割があるのかないのか、まったくわかりません。どっちでもいいのかもしれません。
今のところは楽しく生きようと思います。
どうして生きてるの?っていうどうしようもない疑問から始まるんだけど、ぼくが自分の大学でやらなきゃいけないことってなんだろう。
たまたま農学部に入ったから、方法としては農学部的な方法になるんだと思う。
だからといって、食糧問題を解決することだとか、環境問題をどうにかするだとかいうことを、大学で、あるいは生きていく中でやるべきことなのかというと、そうではないんだと思う。
だって、そうだとしたら、そういう問題が解決したら何するの?ってなるでしょ?別の問題をみつけたらいいのかな?たぶんそういうことじゃないよね。たぶん。
じゃあ、なにをやるべきなのかな。
やるべきっていうのもおかしいのかもしれない。やるべきっていうのはつまり、目的があって人間がいるっていうことだから、目的が明確でなければいけないけど、それは僕らにはわからない。目的が設定されているなら、達成されたときに必要でなくなってしまうものね。ならば、もし目的があるとしても、それはなにかの過程なのかもしれない。
つまり、人間はなにかを目的にして生きているのではなくて、生きていること自体が目的なんだってことなんだろうか。
でも、そんなのよく意味がわからない。
んー。
ま、いえることは、たとえ僕が死んだとしても、宇宙には何の影響もないってことだ。人類が滅んでも一緒だ。これを逆の方向から見ると、宇宙にはなんの影響も及ぼさないんだから、僕は好きに生きたらいいっていうことだ。でもその責任はすべて自分が背負わなければならない。当然だ。
なんかなんとなく感じることは、古典力学的な考え方、決定論的な考え方だと、何かわからなきゃいけなくて、知識として、把握できなければいけないけど、そういう考え方には限界がある…というか、そういう考え方でうまく扱える領域もあることは事実だけど、もしかしたら、それだけじゃ語れない部分があるのかもしれない。
今までの人間の歴史があって、それをふまえて、今、僕たちが何を考えるのか。ということは重要な気がする。つまり、そのための勉強なんだと、思う。勉強は、試験のためでもないし、研究のためでもないし、知りたいという欲求でもない。
なんなんだろう、僕が農学部でできることって。
みなさんはどう思いますか?自分の役割って、あると思いますか?