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2025/04/30 18:04 |
さーふぇいす
忘れないように、書いているだけなんですけどね。

芸術ではよく、「崩す」といいます。たぶん。
型にはまっているままではまだ青いっていうことなんだと思いますが、ただ崩すのではなくて、自分風に崩す、といいますか、自分色をだすっていうことなんでしょうね。周知だと存じます。

僕にとっては、型をみつけるのが大変で。。
なにごとも真似することから始まるのはそういうことなんだと思いますが、ただ真似をしてもそれは型を見つけることではないのだと思います。

若い画家は模写っていうことをするみたいです。巨匠の絵画を目に焼き付けて、むしろ心に焼き付けているのかもしれませんが、その後その絵を目の前の白紙の紙に描いていくという、そういう練習?
これは、絵画の分野では確立されたことなのだという気がします。ただ巨匠の絵を鉛筆でなぞるだけではないのです。ここがミソです。心に巨匠の絵画の情報を焼き付けていますので、ここから、模写する画家の中で、絵画を再構築する必要があります。その過程はもしかしたら、巨匠がその絵画を書くときの心境をなぞることに近いのかもしれないと、思いました。これは、結果から原因を探るということを、やっているのです。

とはいっても、僕が実際にやったわけではないので、想像ですけどね。

真似をするってこういうことなのかな、と思います。型を見つけるってこういうことなのかな。


僕が書いていることも、「結果」です。あなたが発言することも「結果」です。でもそれらには必ず理由か背景があります。それは必ずしも表面に現れてきませんし、言葉で通じ合えるものとも限りません。その場、その時で、受け取る人が考えなければなりません。でも、知ろうとしなければ、そんな問すら存在しません。
なにも芸術だけに言えることではないのだと信じています。

型にはまり、そして型からでる。という芸術を会得するひとつの手法と、僕の考えていることの一致するところをみつけました。過去を知り、現在の自分の行いを決めるという、ことです。過去があって、今がある、今僕らはなにをするのか。でも、僕がちゃんと芯をとらえているのか、ちょっと不安です。


最近そんなことばかり考えていますね。そろそろ社会に出る時期が近づいてきたからなんでしょうか、早く答えを出してしまいたいとどこかで思っているのかもしれません。あせらなくてもいいのはわかっているのですが、若いので仕方ないのだと思います。役割があるのかないのか、まったくわかりません。どっちでもいいのかもしれません。

今のところは楽しく生きようと思います。
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2007/03/13 03:39 | Comments(0) | TrackBack() | the second act
役割

どうして生きてるの?っていうどうしようもない疑問から始まるんだけど、ぼくが自分の大学でやらなきゃいけないことってなんだろう。

たまたま農学部に入ったから、方法としては農学部的な方法になるんだと思う。

だからといって、食糧問題を解決することだとか、環境問題をどうにかするだとかいうことを、大学で、あるいは生きていく中でやるべきことなのかというと、そうではないんだと思う。

だって、そうだとしたら、そういう問題が解決したら何するの?ってなるでしょ?別の問題をみつけたらいいのかな?たぶんそういうことじゃないよね。たぶん。

じゃあ、なにをやるべきなのかな。

やるべきっていうのもおかしいのかもしれない。やるべきっていうのはつまり、目的があって人間がいるっていうことだから、目的が明確でなければいけないけど、それは僕らにはわからない。目的が設定されているなら、達成されたときに必要でなくなってしまうものね。ならば、もし目的があるとしても、それはなにかの過程なのかもしれない。

つまり、人間はなにかを目的にして生きているのではなくて、生きていること自体が目的なんだってことなんだろうか。

でも、そんなのよく意味がわからない。

んー。

ま、いえることは、たとえ僕が死んだとしても、宇宙には何の影響もないってことだ。人類が滅んでも一緒だ。これを逆の方向から見ると、宇宙にはなんの影響も及ぼさないんだから、僕は好きに生きたらいいっていうことだ。でもその責任はすべて自分が背負わなければならない。当然だ。

なんかなんとなく感じることは、古典力学的な考え方、決定論的な考え方だと、何かわからなきゃいけなくて、知識として、把握できなければいけないけど、そういう考え方には限界がある…というか、そういう考え方でうまく扱える領域もあることは事実だけど、もしかしたら、それだけじゃ語れない部分があるのかもしれない。

今までの人間の歴史があって、それをふまえて、今、僕たちが何を考えるのか。ということは重要な気がする。つまり、そのための勉強なんだと、思う。勉強は、試験のためでもないし、研究のためでもないし、知りたいという欲求でもない。


なんなんだろう、僕が農学部でできることって。

みなさんはどう思いますか?自分の役割って、あると思いますか?


2007/03/11 03:03 | Comments(4) | TrackBack() | the second act
軽い話

このブログをはじめてからというもの、ep.12にいたるまでの道のりを実践的物語風に書いてきたつもりですが、どういう形式で書いたら自分の伝えたいことがうまく伝わりやすくなるのか、また、読む側が楽しくよめるのか、そういうところをもっと勉強したいと思うようになりました。

ブログをはじめた当初は、小説、といったらことが大きくなってしまいますが、まぁ、短編小説的な書き方が、読む側も苦にならず、内容をしっかり持たせることができる読み物の形式だと思ったのです。フィクションなのか、ノンフィクションなのか曖昧に見える書き方(部分的なノンフィクション)は、ある人の文章に刺激を受けて、自分もやってみようと思ったのですが、そう簡単に真似はできませんね。。

伝えたいことっていうのは、あるんですよね、音楽をやっているときよりも明確に。だから、そういう部分は大丈夫なんじゃないかと思うんですけど、それを表現するための技術というか知識というかそういうところがちょっとたりないです。まぁでもそれは本を読めばいいと思うので、研究したいと思います。

ということで、自分に合った書き方の形式を見つける、っていうことを、ブログをやる上でのしばらくの目的にしたいと思います。実践と練習を同時にやればいいんだと思います。あせらず、やってみます。試みごとに"the ~ act"というカテゴリを作ってみようと思います。

そのための準備として僕は色々な本を読まなければならないと思います。でも、膨大なんですよね、。
そこで、みなさんに、面白い、と感じた本があったら教えていただきたいです。ジャンル、言語は問いません。面白いと感じたことは、内容でも、著者の考え方でも、文体でもなんでも良いです。よろしくお願いします。読破したら、自分なりの感想を書かせていただこうかと思います。

とりあえず、ブログ開設当時からの目的を一つ果たせたので、次なる目的に向けて動き出します☆ご精読ありがとうございました。でも、まだまだつづくよ。


2007/03/05 02:25 | Comments(1) | TrackBack() | the first act
ep.13 衝撃的

ひとつ明らかにわかったことがある。それについて書く。

音楽を真剣にやってるから、練習してるときとか、シャワー浴びてるときとか、寝る前とか、歯医者の順番待ちの時間とか、そういうときに音楽とか楽器とか演奏とかについて頻繁に考えてる。

でも不思議なことに、そうやってだいたい1年間くらい考えてきたことの今のところの結論は、音楽という範疇だけにおさまるものではなかった。だから、こういうふうに感じるようになってた。つまり、人間がやることって、全部根本は同じなんじゃないかって。というか、抱えている問題は一緒なんだろうって。

音楽をやることで、音楽のレベルを鍛えるだけでなく、人間というものを深めることができると信じるようになった。むしろ、音楽をやることの意味はそこだろうと!

ここで、ツールとしての音楽を考えると、商売だとかストレス発散だとか達成感だとか色々でてくると思うが、そうじゃなくて、もっと本質を考えると、やっぱり、「伝えたい」という気合いがあるものなんだ!その「伝えたい」という気持ちがなければ、本質的な音楽は必然的にありえないに違いない!でも世界には商業的な音楽がたくさんある!それを真似たものはそれ以上にたくさんある。それはそれで良い。

でも、「伝えたい」っていうことは音楽でなくてもいいんだ。
絵でもいいし、他の芸術でもいい。料理でもいい!研究でもいい、サッカーでもいいし、野球でもいい!そういう意味では僕はバット一本はフルート一本と同じ重さだと思うよ。

そう、音楽である必要はない!なぜなら、音楽というのは人間と人間との相互作用のある一面でしかないから!なにやってもいい!なんでもOKなんだ!

もしも、音楽をやることの目的を音楽にしてしまったら、人は音楽しか見れなくなってしまうだろう。その後ろには広大なフィールドが広がっているのに!気づいていなければ、その人にとっては無いものと同じだ!



音楽に自分を当てはめるのか、それとも自分に音楽を当てはめるのか!


なにをするかではなく、どうやるか、だ。


2007/03/04 07:34 | Comments(1) | TrackBack() | the first act
ep.12 ネズミの冒険
最近、あるフルート吹き(以降ネズミと記す)が人生を立ち止まって考えているようだ。

簡単に言うと、音楽に疑問を抱いてしまった。そういうことだった。音楽をやる意味って、何ですか、と、そいつはユウスケに出会いがしら、質問をぶつけてきた。

それから一瞬の間に、ユウスケの頭の中には半年前の学生食堂の光景が広がった。ユウスケも、同じことを考えていた時期があった。今もその延長だけど。

あるヴァイオリン弾きの学生は言った。なぜ音楽をやるのかという問に対して、「楽器うまくなるのが単純に楽しい」と。なるほど、そういう時期もユウスケにはあったと思う。でも、その答えは、ネズミの質問に対する答えにはならない。楽器を弾くということは、音楽の本質ではない、と思う。音楽の一部ではあるが。ただ、楽器の上達に喜びを感じない人はいないとも思うし、だから楽器を練習する人もたくさんいるのは確かなこと。でも、よくよく考えてみると、楽器は音楽をするための手段でしかないとユウスケは感じている。手段は目標にならない。手段を目標とするとそれは哲学になってしまうね。
だから、それは音楽そのものを楽しんでいるわけではないんじゃないかな。

ユウスケは、半年前の学食で、自分はいままで「楽器をいかに演奏するか」ということにばかりエネルギーと時間を費やしてきたのだと気づいた。もしかしたら、楽器を演奏する、ということとは別のところに、「音楽」というものがあるのではないかと思うようになった。

そうなると、その「音楽」っていうものが何なのか、っていう疑問が必ず湧いてくる。

そう、それを考えなきゃ。答えの無い問いのような気がするが、考える過程が大事だと思う。そのときそのときの答えでも良い。そう思う。


さて、そんなことを一瞬で思い出したユウスケは、ネズミに何か答えたかった。ネズミのためというよりは、ユウスケの答えを聞いてネズミがどんなことを言ってくるのかという期待と、口に出すことで自分のなかでもう一度考えを整理できると感じたからだった。

ユウスケはネズミにこう言った。「世の中のすべてのものに『崇高な意味』があるわけではないんじゃない?」

音楽はなにか特別な力をもっているのだろうか。それともただ美しいだけなのだろうか。というか、ただ美しいだけなのは悪いのだろうか。

ネズミはこう言った。「音楽はただの娯楽なんですか?」

ネズミは、音楽には何かしっかりとした目的が備わっているのだと信じたいのだと思う。そうでないと、ネズミの中で何かが崩れてしまうかのような、そんな印象をユウスケは受けた。でも、そこで何かを崩せたら、ネズミはもっと楽にいろいろなことを考えられるようになるような気がする。

音楽はただの娯楽なのか。むしろ、ただの娯楽ではいけないのか。音楽の歴史としてみるべきなのか、今の社会の一部としてみるべきなのか、そこらへんもはっきりしない。というかよくわからない。
よくわからないことを考えることは、楽しい、でも、結局わからない。それって意味があるのないの?それすらもわからない。わからないことを考えてもわからない。これはわかりそうだ。

ユウスケや、ネズミや、そのほか大勢の音楽にかかわっている人は、なんで身を削るものとして「音楽」を選んだのか。ユウスケは本当はなんでも良いのだと思っている。音楽でなくても、スポーツでも、絵画でも、将棋でも、読書でも、なんでも。でも、何かやっているときって、それについて何か考える。そこが大事なんじゃないかと思う。ユウスケが常に思っていることだが、「何をやるかじゃなくて、どうやるかだ」ということは、何をやっていても、わかると思う。だから、ユウスケらアマチュアが何かやるときそれが音楽である必要はまったく無い。量子力学のちからを借りると、どうらや運命なんて無いらしい。道筋は異なっていても、人間はどこかに向かえるのかもしれない。わからないが。

もちろんこの話は「人間はなんのためにいるのか」という話に発展するんでしょうが、考えたってわからないんだ。だから、ずっと考えるしかないね。アダムとイヴはきっとそんなこと気にも留めていなかったと思うよ。

2007/03/01 04:28 | Comments(0) | TrackBack() | the first act

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