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2025/07/09 09:00 |
ep.11 夕方の星は青い 

問1 二次方程式y=xをx軸方向に2だけ移動したときの方程式を書け。

この問の解法は、ユウスケの記憶では、与式のxに(x-2)を代入するというものだった。すると移動した後の式は次のようになる。

y=x-4x+4 …① 

図で表すとこうなる。
ketei.jpg

正解。


問2 でも、なんで(x-2)を代入するとグラフをx軸方向に2移動したグラフになるのだろう。

ユウスケは数学を良く知らないので、直感的には2を引くのではなくて、足すのではないかと考えてしまう。

でもここで勘違いしてはいけないのは、(x-2)を代入するということは、与式から2という数を引いているわけではないということだ。これはあたりまえのことだが、直感的に2を足したほうがいいのではないか、と考えてしまうのは、そこをはき違えているからなのだと推察する。

グラフをx軸方向にずらすっていうことは、x方向にずらしたぶんだけyの値のxの値への対応が移動する前のグラフよりも遅れるっていうこと。
つまりもとのグラフよりもずらしたぶんだけ遅れるから、引くってことか。

今日はここまで。

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2007/02/22 23:48 | Comments(2) | TrackBack() | the first act
ep.10  かわいい女の子

人が人を好きになるのってなぜなんだろう。

そういう感情まで遺伝子にコントロールされていることを考えると、生き物っていうのは制限の上に立って生かされているなと思う。所詮は遺伝子の殻でしかないのか。子孫を残すって言うことを生き物の生きている理由だとすると、そうなるような気がする。
でも、そうじゃないのかもしれない。

わからないことは考えない、そう言い出したのは誰だったか。そうなのかもしれない。この世のすべてに意味があるのか無いのか、誰にもわからない。ただ、それがあるだけなのかもしれない。どうなのかわからないが、ありそうだという気がしてきて、それを言い表せるなら、あると考えてもいいのかもしれない。でもそれはすごく似ているけど、違うものかもしれない。そうか、結局、言い表すことができても、わからないままなんだ。

まぁ、いいか。



ユウスケはチョコレートを食べながら少し考えていた。

「人が人をすきになるのってなぜなんだろう。」

子孫を残すためか?でもそれはずっと昔からそう考えてる人はいたでしょう。
同性愛者、子孫のこせないけど、好きなんだ。なんでだろう。いや、少なくとも、僕たちの人を好きになるという感覚は、性別に体の表面上の特徴があることよりももっとあいまいなんだと思う。みんな、少しは同姓のことを好きな気持ちはあるはずだという気がする。その気持ちの割合が問題なんじゃないかな。今のユウスケは女が好きという割合が大きいけど、いつその割合が大きく変化するかもしれない。でも、それはおかしいことではないのかもしれない。

個人のためなのかな、もしかして、好きになることって。それが、「欲」として遺伝子には書き込まれていて、結果としては子孫を残そうとしているように見えるけど…。だったらそれで子供ができなくてもいいのかもしれない。だから同姓愛でもいいのかもしれない。

そう考えると、子孫を残すってことと人を好きになるってことを切り離して考えられるかも。

あ!逆に考えると、子孫を残すことと人を好きになることは別でも良いってこと!?

すごい。。ここまで考え付くとは思わなかった。うーん。。これはまた別の機会に考えてみてもよさそうだ。



ユウスケはチョコレートの包み紙をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に投げ捨てた。
明日は10時に鷺宮駅に行く用事がある。

「ふぅ、そろそろ寝なくちゃ」

ユウスケはシャワーを浴びるため、パソコンを閉じた。


2007/02/18 03:57 | Comments(1) | TrackBack() | the first act
ep.09 裂け目の牧場

ちょっと赤面しちゃうようなアレなんですが実は。。エンペドクレスっていう空気を見つけた紀元前5世紀くらいの自然学者みたいな人の言葉らしいのですけど…。

 

ここ数日、集中講義という名の牢獄に閉じ込められていたためか、白い顔に今度は青みを増している。朝から晩まで講義というのは1年ぶりくらいだったので、すっかり参ってしまった。

これで最後だ…という気持ちでユウスケはレポートに取り掛かった。

講義の名前は「環境生物相関論」

 

個と環境

大学生にもなると、人生で感じるであろう大体の基本的な感情は経験したのではないだろうか。楽しいことだけでなく、苦しいことやつらいことも経験し、その重圧から逃れ楽になるために色々と物思いにふける。若いときの苦労は買ってでもしろということわざもあるが、つらく苦しい経験というのは人に考えることを強要するのかもしれない。苦しみから逃れるために思考したことの結果というのは、後の人生において各々個人の教訓となるだろうし、また他人を説得する。ヒットする歌に失恋の歌が多いのは偶然ではないだろう。

しかし、そうして苦心して出した結果は”自分”と”自分でないもの”という2つの対象の関係についての結論に行き着く場合が普通である。”自分”は変わることができるが、”自分でないもの”は”自分”にはどうしようもなく、いかに”自分”が”自分でないもの”とうまく付き合っていくかということに結論を求め、その積み重ねで人生をうまくストレスなく生きられるようになろうとしているように見える。だがこの試みは”自分でないもの”を障害として立てることで、より様々な環境に柔軟に対応できる自分を手に入れようとしているのであり、”自分でないもの”はどうしようもないものとして放置されるのである。

ここで僕が考えたのは、人生での様々な経験を考えるときに、”自分でないもの”を自分の中に含めて考えることができるのではないかということである。そうすることで、どうしようもないものとして放置されていた”自分でないもの”も一緒に混ぜ込んで考えることができる。

簡単な例を挙げる。今の時期、大学生なら試験やらレポート提出やらに追われていてふつうは忙しい。それらを採点する教授に比べたらたいしたことは無いのかもしれないが…。ここである友人が僕に試験について愚痴をこぼしたとする。「私は、残りの2週間で教養の試験を3つ、専門科目の試験を9つ、レポート課題を5つこなさないといけないんだ。さらに補講が入っているから、実際はあと1つ2つは試験が増えるはずだよ。嫌になっちゃうよ。早く春休みにならないかなぁ」と。このとき友人は、試験や補講を”自分ではないもの”として話しているのは明らかで、それらをいかにこなすか、ということが気がかりになっている。

このとき彼は、彼がそれほどまでに忙しくしなくてはならないのは彼自身のせいなのだということに気づいていない。彼が試験で忙しくするのは、もちろん試験でSを取り単位を取得したいがためである。しかし、彼以外の誰もそれを彼にさせることはできないから、彼が望んで自ら試験を受けなければ彼が僕に愚痴をこぼす破目になるはずが無い。よって、彼が大学の試験勉強のために睡眠時間を削らなければならなくなったのは他でもない、彼自身の決定によるところなのである。

反論として、「大学では単位をとらなければ卒業できないし、卒業するためには半期にそれだけの単位をとらなければいけないようになっている」という人がいるかもしれない。でも、そういう決まりになっている大学で4年間で卒業しようとたくらんでいるのも彼自身である。

すべての責任は行動する自分自身にある。”自分ではないもの”というものをでっち上げて責任をなすりつけて済ませることもできるかもしれないが、考え方によってはすべて自分の意志の問題として扱えるのではないか。このことはつまり、個をとりまく環境の問題はすべて個に帰せられる、ということになるのだと思うが、そうなると、環境についての問題というのは、人の頭の中の問題ということになるのではないか。

 

ここまで書いてユウスケは満足した。このレポートがどれだけの意味をもっているのか、それは実際は2単位というもの以外の何者でもないが、そんなことは考えなくて良かった。あとユウスケがやることといったら、ワードの文章をプリントアウトしてホチキスでとめる事だけだった。明日の昼の提出に間に合うように起きれれば、今回の思考が無駄ではなくなる。


2007/02/16 05:31 | Comments(1) | TrackBack() | the first act
ep.08 ヒト活動論

今日もユウスケはトロンボーンを吹いていた。

いつもと変わらない、そんな楽器と触れる毎日。

朝(まぁ、昼に近い朝)おきて、学校へ。講義にでて、楽器を練習して、バイト。帰宅。シャワー浴びて寝る。

これを1週間に7回繰り返す。この1週間をつきに4回、12セットで1年。。

 

やっぱり疑問を持つ。この山パンのアルバイトみたいな毎日に。そして、考える。この生活で何を得られているんだろう。

考えていくうちに、ユウスケが気づいたことがあった。それは、自分が「何かを考えている」ということだった。

これは、山パンではないんだ、と、ユウスケは確信を持つことができた。ユウスケが「考えた」ことは、楽器で演奏するということについて「考える」ことから発生したにもかかわらず、その意味を濃厚オケの範囲にとどめておくことはなかった。そのことに気づいたことが、ユウスケにとって、助けになった。

主観的にはそうなる。でも、もしかしたら、ユウスケがそう信じているだけなのかもしれない。

しかし、それについて否定することは「本当は」難しいんじゃないかと思う。

知識とは、信じることと同じじゃないか?

 

「人間がやること」って、すべて同じ本質をもっているんだと思う。だから、何をやるかじゃないんだ。どうやるか、そこが本質と結びついているんじゃないかな。簡単とか、難しいとかはあるだろうけど、できるできないじゃなくて、やるかやらないか、っていうよく言われる(意味がわかってるのかは知らないけど)ことになるんだろうね。

さぁ、はたしてユウスケも良くわかってないかもしれないが。。


2007/02/11 16:00 | Comments(1) | TrackBack() | the first act
ep.07 「答え」はあるのか

18:55。

ユウスケは月、水、土の週に3日はこの時間に居酒屋にバイトに出ている。かれこれ2年以上やっているので、店の人からは頼りにされている…と本人は思っている。

店では日本酒、焼酎、梅酒、果実酒、サワー類、ブランデー、ウイスキー、ワイン、マッコリなどを提供しているが、店の人のノリしだいでいつのまにかメニューが増えていたりする。最近はぶどうサワーの上に生ビールの泡をのせた、「スノーグレープ」なるものを追加したみたいだが、まだ客席に運ばれているのを見たことは無い。

新しく追加されたメニューの中に、「梅酒(芋焼酎)」というものがあった。

「芋焼酎?」

ユウスケはふと疑問に思った。じゃあ、ふつうの梅酒はどんな種類の焼酎でつくられているのだろう。

その日のバイト中、ユウスケはそのことが気がかりでしかたなかった。あまりに気になりすぎて、ジョッキいっぱいになっても生ビールをつぎ続けたため、ビールがジョッキからあふれ出して、どばー。それを見られて店の人に笑われてしまった。まぁ、よくあるよくある。バイトが終わって家に帰ると早速調べてみることにした。

 

「梅酒」

梅酒(うめしゅ)とは、一般的に6月頃に収穫される青梅を35~40度程度のアルコール(ホワイトリカー、焼酎が一般的)で漬け込んだ酒で、日本を代表するリキュールである。 「うめざけ」「ばいしゅ」「うめじょうちゅう」とも言われる。梅1kgに対して砂糖0.4~1kg、酒1.8リットルが一般的な割合である。アルコールはホワイトリカー(甲類焼酎)、ブランデーが無難であるが、ジン、ウォッカ、ラム酒などのスピリッツや、日本酒、みりん、ワインなどの低アルコール度の酒でも漬け込むことができる。

「ってことは、焼酎なら甲類をつかうってことかな。ブランデーもよく使うのかな。あ。でも江戸時代にはすでに家庭で梅酒がつけられてたらしいから、伝統的な梅酒は焼酎を使うんだろうな。」

ユウスケは梅酒で有名なCHOYAでは梅酒をつけるのにどんな酒をつかっているのか調べてみた。以下、CHOYAのサイトから抜粋。

★チョーヤ梅酒 紀州
ホワイトリカーベースのスタンダード梅酒。梅そのものの風味が楽しめる昔ながらの味わい。
中に入っている梅の実はデコレーションにも最適。(梅の実はそのままでおいしく召し上がれます。)

★チョーヤ梅酒 ブラック
 ブランデーを使用したまろやかでコクのある味わいはソーダ割りなどカクテルベースにぴったり。720mlビン、1.8Lビン・ペットボトルと容器のバリエーションも豊富。

★チョーヤ梅酒 エクセレント
紀州産の特選梅とブランデーで造り上げた高級梅酒。
よりまろやかでコクのある味わいはシンプルなオンザロックからさまざまなカクテルベースまでワンランク上の梅酒が楽しめる。

「さらりとした梅酒は…のってないなー。原材料は調べればあるかな…。あった!原材料名は、梅、砂糖、醸造用アルコール、ブランデー、か。醸造用アルコールは甲類ってことでしょ?原材料名の書き方はJAS法で、『食品添加物以外の原材料は、原材料に占める重量の割合の多いものから順に、その最も一般的な名称をもって記載すること。』っていうふうに決められてるから、ブランデーよりも甲類焼酎のほうが多く使われてるってことか。でも、それよりも砂糖の方が多いんだね。。なるほどね~。まぁ、つまりバイト先にあった芋焼酎の梅酒は珍しい造り方をしてるんだきっと。甲類は個性がすくない感じがするから梅のお酒を造るときに梅とぶつかりあわないんだろうな。芋だと癖があるっていうけど、それで梅酒をつくるとどうなるんだろう…。今度行ったらちょっと飲ませてもらおうかな。」

今の時代、調べれば大抵の疑問は解けちゃうんだな~。とは思いつつも芋焼酎について調べるのはまた今度にして、図書館から借りパクしているファインマン物理学を机の上に開いた。

ユウスケはこの手の物理学の本を読むのが苦手だった。ファインマンはまだ数式が少ないからとりくみやすいかと思ったが、なぜだろう、嫌いではないのになかなか進まないのだ。図書館に返さなければならない日付はとっくに過ぎているのに、10分の1も読めていなかった。いま開いているページでは、ファインマンが素粒子と呼ばれる「点」について、表を用いて丁寧に説明してくれていた。原子は原子核と電子からなり、原子核は陽子と中性子からなり、陽子と中性子はクォークからなっていて、電子はレプトンである、と。(*本当はそんな言い方はしていなかったと思います)

「陽子とか中性子を作っている粒子なんていうのがあったんだ!!いくらでも細かくできそうだな(笑)」

とユウスケは思った。ユウスケにこの分野の専門的な知識はほとんど無い。けれど、ひとつ思うことがあった。

「『答え』ってあるのかな」

という疑問だった。

ユウスケは陽子より小さな粒子は電子しかしらなかった。しかし、クォークとレプトンと呼ばれる素粒子が存在していた。しかもそれらにたいしてハンリュウシというものが存在しているらしく、もう意味がわからない。でも、今まで当たり前だった、素粒子は陽子と中性子と電子だという世界がユウスケの中で崩れたということは確かだった。人類も同じ経験をしてきたことになる。どこかで世の中の『答え』が変わったのだ。

光が粒子だった時期もあれば波だった時期もあり、地球が太陽の周りをまわっていた時期もあれば太陽が地球の周りを回っていた時期もあり、天皇が神だった時期もあれば天皇が人だった時期もあり、チェロを弾くときに脇に本をはさんでいた時期もあれば脱力していた時期もあり、素粒子が3つしかない時期もあれば素粒子がわんさかでてくる時期もあるのである。

たしかに、帰納法的ではあるかもしれないが、可能性があるということである。そんなもんでしょう。

単純に一般化することには問題があるのかもしれないが、ユウスケには良くわからない。

ただ、一般化して考えることで、考えることの幅が広がる。

そう、今ユウスケは考えることを楽しんではいるけど、これも同じで、考えることが永遠の「答え」なのかどうかはわからない。ただ、可能性がそこにあると思うから、ユウスケは考えることを楽しんでいる。

常に流動的、常に不確実的。

それでいいんじゃないか。

 

ユウスケは自分の中に一つ結論をだした。これも流動的なのだろうけども。


2007/02/09 05:39 | Comments(4) | TrackBack() | the first act

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