このブログをはじめてからというもの、ep.12にいたるまでの道のりを実践的物語風に書いてきたつもりですが、どういう形式で書いたら自分の伝えたいことがうまく伝わりやすくなるのか、また、読む側が楽しくよめるのか、そういうところをもっと勉強したいと思うようになりました。
ブログをはじめた当初は、小説、といったらことが大きくなってしまいますが、まぁ、短編小説的な書き方が、読む側も苦にならず、内容をしっかり持たせることができる読み物の形式だと思ったのです。フィクションなのか、ノンフィクションなのか曖昧に見える書き方(部分的なノンフィクション)は、ある人の文章に刺激を受けて、自分もやってみようと思ったのですが、そう簡単に真似はできませんね。。
伝えたいことっていうのは、あるんですよね、音楽をやっているときよりも明確に。だから、そういう部分は大丈夫なんじゃないかと思うんですけど、それを表現するための技術というか知識というかそういうところがちょっとたりないです。まぁでもそれは本を読めばいいと思うので、研究したいと思います。
ということで、自分に合った書き方の形式を見つける、っていうことを、ブログをやる上でのしばらくの目的にしたいと思います。実践と練習を同時にやればいいんだと思います。あせらず、やってみます。試みごとに"the ~ act"というカテゴリを作ってみようと思います。
そのための準備として僕は色々な本を読まなければならないと思います。でも、膨大なんですよね、。
そこで、みなさんに、面白い、と感じた本があったら教えていただきたいです。ジャンル、言語は問いません。面白いと感じたことは、内容でも、著者の考え方でも、文体でもなんでも良いです。よろしくお願いします。読破したら、自分なりの感想を書かせていただこうかと思います。
とりあえず、ブログ開設当時からの目的を一つ果たせたので、次なる目的に向けて動き出します☆ご精読ありがとうございました。でも、まだまだつづくよ。
ひとつ明らかにわかったことがある。それについて書く。
音楽を真剣にやってるから、練習してるときとか、シャワー浴びてるときとか、寝る前とか、歯医者の順番待ちの時間とか、そういうときに音楽とか楽器とか演奏とかについて頻繁に考えてる。
でも不思議なことに、そうやってだいたい1年間くらい考えてきたことの今のところの結論は、音楽という範疇だけにおさまるものではなかった。だから、こういうふうに感じるようになってた。つまり、人間がやることって、全部根本は同じなんじゃないかって。というか、抱えている問題は一緒なんだろうって。
音楽をやることで、音楽のレベルを鍛えるだけでなく、人間というものを深めることができると信じるようになった。むしろ、音楽をやることの意味はそこだろうと!
ここで、ツールとしての音楽を考えると、商売だとかストレス発散だとか達成感だとか色々でてくると思うが、そうじゃなくて、もっと本質を考えると、やっぱり、「伝えたい」という気合いがあるものなんだ!その「伝えたい」という気持ちがなければ、本質的な音楽は必然的にありえないに違いない!でも世界には商業的な音楽がたくさんある!それを真似たものはそれ以上にたくさんある。それはそれで良い。
でも、「伝えたい」っていうことは音楽でなくてもいいんだ。
絵でもいいし、他の芸術でもいい。料理でもいい!研究でもいい、サッカーでもいいし、野球でもいい!そういう意味では僕はバット一本はフルート一本と同じ重さだと思うよ。
そう、音楽である必要はない!なぜなら、音楽というのは人間と人間との相互作用のある一面でしかないから!なにやってもいい!なんでもOKなんだ!
もしも、音楽をやることの目的を音楽にしてしまったら、人は音楽しか見れなくなってしまうだろう。その後ろには広大なフィールドが広がっているのに!気づいていなければ、その人にとっては無いものと同じだ!
音楽に自分を当てはめるのか、それとも自分に音楽を当てはめるのか!
なにをするかではなく、どうやるか、だ。
簡単に言うと、音楽に疑問を抱いてしまった。そういうことだった。音楽をやる意味って、何ですか、と、そいつはユウスケに出会いがしら、質問をぶつけてきた。
それから一瞬の間に、ユウスケの頭の中には半年前の学生食堂の光景が広がった。ユウスケも、同じことを考えていた時期があった。今もその延長だけど。
あるヴァイオリン弾きの学生は言った。なぜ音楽をやるのかという問に対して、「楽器うまくなるのが単純に楽しい」と。なるほど、そういう時期もユウスケにはあったと思う。でも、その答えは、ネズミの質問に対する答えにはならない。楽器を弾くということは、音楽の本質ではない、と思う。音楽の一部ではあるが。ただ、楽器の上達に喜びを感じない人はいないとも思うし、だから楽器を練習する人もたくさんいるのは確かなこと。でも、よくよく考えてみると、楽器は音楽をするための手段でしかないとユウスケは感じている。手段は目標にならない。手段を目標とするとそれは哲学になってしまうね。
だから、それは音楽そのものを楽しんでいるわけではないんじゃないかな。
ユウスケは、半年前の学食で、自分はいままで「楽器をいかに演奏するか」ということにばかりエネルギーと時間を費やしてきたのだと気づいた。もしかしたら、楽器を演奏する、ということとは別のところに、「音楽」というものがあるのではないかと思うようになった。
そうなると、その「音楽」っていうものが何なのか、っていう疑問が必ず湧いてくる。
そう、それを考えなきゃ。答えの無い問いのような気がするが、考える過程が大事だと思う。そのときそのときの答えでも良い。そう思う。
さて、そんなことを一瞬で思い出したユウスケは、ネズミに何か答えたかった。ネズミのためというよりは、ユウスケの答えを聞いてネズミがどんなことを言ってくるのかという期待と、口に出すことで自分のなかでもう一度考えを整理できると感じたからだった。
ユウスケはネズミにこう言った。「世の中のすべてのものに『崇高な意味』があるわけではないんじゃない?」
音楽はなにか特別な力をもっているのだろうか。それともただ美しいだけなのだろうか。というか、ただ美しいだけなのは悪いのだろうか。
ネズミはこう言った。「音楽はただの娯楽なんですか?」
ネズミは、音楽には何かしっかりとした目的が備わっているのだと信じたいのだと思う。そうでないと、ネズミの中で何かが崩れてしまうかのような、そんな印象をユウスケは受けた。でも、そこで何かを崩せたら、ネズミはもっと楽にいろいろなことを考えられるようになるような気がする。
音楽はただの娯楽なのか。むしろ、ただの娯楽ではいけないのか。音楽の歴史としてみるべきなのか、今の社会の一部としてみるべきなのか、そこらへんもはっきりしない。というかよくわからない。
よくわからないことを考えることは、楽しい、でも、結局わからない。それって意味があるのないの?それすらもわからない。わからないことを考えてもわからない。これはわかりそうだ。
ユウスケや、ネズミや、そのほか大勢の音楽にかかわっている人は、なんで身を削るものとして「音楽」を選んだのか。ユウスケは本当はなんでも良いのだと思っている。音楽でなくても、スポーツでも、絵画でも、将棋でも、読書でも、なんでも。でも、何かやっているときって、それについて何か考える。そこが大事なんじゃないかと思う。ユウスケが常に思っていることだが、「何をやるかじゃなくて、どうやるかだ」ということは、何をやっていても、わかると思う。だから、ユウスケらアマチュアが何かやるときそれが音楽である必要はまったく無い。量子力学のちからを借りると、どうらや運命なんて無いらしい。道筋は異なっていても、人間はどこかに向かえるのかもしれない。わからないが。
もちろんこの話は「人間はなんのためにいるのか」という話に発展するんでしょうが、考えたってわからないんだ。だから、ずっと考えるしかないね。アダムとイヴはきっとそんなこと気にも留めていなかったと思うよ。
問1 二次方程式y=x2をx軸方向に2だけ移動したときの方程式を書け。
この問の解法は、ユウスケの記憶では、与式のxに(x-2)を代入するというものだった。すると移動した後の式は次のようになる。
y=x2-4x+4 …①
図で表すとこうなる。
正解。
問2 でも、なんで(x-2)を代入するとグラフをx軸方向に2移動したグラフになるのだろう。
ユウスケは数学を良く知らないので、直感的には2を引くのではなくて、足すのではないかと考えてしまう。
でもここで勘違いしてはいけないのは、(x-2)を代入するということは、与式から2という数を引いているわけではないということだ。これはあたりまえのことだが、直感的に2を足したほうがいいのではないか、と考えてしまうのは、そこをはき違えているからなのだと推察する。
グラフをx軸方向にずらすっていうことは、x方向にずらしたぶんだけyの値のxの値への対応が移動する前のグラフよりも遅れるっていうこと。
つまりもとのグラフよりもずらしたぶんだけ遅れるから、引くってことか。
今日はここまで。
人が人を好きになるのってなぜなんだろう。
そういう感情まで遺伝子にコントロールされていることを考えると、生き物っていうのは制限の上に立って生かされているなと思う。所詮は遺伝子の殻でしかないのか。子孫を残すって言うことを生き物の生きている理由だとすると、そうなるような気がする。
でも、そうじゃないのかもしれない。
わからないことは考えない、そう言い出したのは誰だったか。そうなのかもしれない。この世のすべてに意味があるのか無いのか、誰にもわからない。ただ、それがあるだけなのかもしれない。どうなのかわからないが、ありそうだという気がしてきて、それを言い表せるなら、あると考えてもいいのかもしれない。でもそれはすごく似ているけど、違うものかもしれない。そうか、結局、言い表すことができても、わからないままなんだ。
まぁ、いいか。
ユウスケはチョコレートを食べながら少し考えていた。
「人が人をすきになるのってなぜなんだろう。」
子孫を残すためか?でもそれはずっと昔からそう考えてる人はいたでしょう。
同性愛者、子孫のこせないけど、好きなんだ。なんでだろう。いや、少なくとも、僕たちの人を好きになるという感覚は、性別に体の表面上の特徴があることよりももっとあいまいなんだと思う。みんな、少しは同姓のことを好きな気持ちはあるはずだという気がする。その気持ちの割合が問題なんじゃないかな。今のユウスケは女が好きという割合が大きいけど、いつその割合が大きく変化するかもしれない。でも、それはおかしいことではないのかもしれない。
個人のためなのかな、もしかして、好きになることって。それが、「欲」として遺伝子には書き込まれていて、結果としては子孫を残そうとしているように見えるけど…。だったらそれで子供ができなくてもいいのかもしれない。だから同姓愛でもいいのかもしれない。
そう考えると、子孫を残すってことと人を好きになるってことを切り離して考えられるかも。
あ!逆に考えると、子孫を残すことと人を好きになることは別でも良いってこと!?
すごい。。ここまで考え付くとは思わなかった。うーん。。これはまた別の機会に考えてみてもよさそうだ。
ユウスケはチョコレートの包み紙をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に投げ捨てた。
明日は10時に鷺宮駅に行く用事がある。
「ふぅ、そろそろ寝なくちゃ」
ユウスケはシャワーを浴びるため、パソコンを閉じた。