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2025/04/30 04:13 |
ep.09 裂け目の牧場

ちょっと赤面しちゃうようなアレなんですが実は。。エンペドクレスっていう空気を見つけた紀元前5世紀くらいの自然学者みたいな人の言葉らしいのですけど…。

 

ここ数日、集中講義という名の牢獄に閉じ込められていたためか、白い顔に今度は青みを増している。朝から晩まで講義というのは1年ぶりくらいだったので、すっかり参ってしまった。

これで最後だ…という気持ちでユウスケはレポートに取り掛かった。

講義の名前は「環境生物相関論」

 

個と環境

大学生にもなると、人生で感じるであろう大体の基本的な感情は経験したのではないだろうか。楽しいことだけでなく、苦しいことやつらいことも経験し、その重圧から逃れ楽になるために色々と物思いにふける。若いときの苦労は買ってでもしろということわざもあるが、つらく苦しい経験というのは人に考えることを強要するのかもしれない。苦しみから逃れるために思考したことの結果というのは、後の人生において各々個人の教訓となるだろうし、また他人を説得する。ヒットする歌に失恋の歌が多いのは偶然ではないだろう。

しかし、そうして苦心して出した結果は”自分”と”自分でないもの”という2つの対象の関係についての結論に行き着く場合が普通である。”自分”は変わることができるが、”自分でないもの”は”自分”にはどうしようもなく、いかに”自分”が”自分でないもの”とうまく付き合っていくかということに結論を求め、その積み重ねで人生をうまくストレスなく生きられるようになろうとしているように見える。だがこの試みは”自分でないもの”を障害として立てることで、より様々な環境に柔軟に対応できる自分を手に入れようとしているのであり、”自分でないもの”はどうしようもないものとして放置されるのである。

ここで僕が考えたのは、人生での様々な経験を考えるときに、”自分でないもの”を自分の中に含めて考えることができるのではないかということである。そうすることで、どうしようもないものとして放置されていた”自分でないもの”も一緒に混ぜ込んで考えることができる。

簡単な例を挙げる。今の時期、大学生なら試験やらレポート提出やらに追われていてふつうは忙しい。それらを採点する教授に比べたらたいしたことは無いのかもしれないが…。ここである友人が僕に試験について愚痴をこぼしたとする。「私は、残りの2週間で教養の試験を3つ、専門科目の試験を9つ、レポート課題を5つこなさないといけないんだ。さらに補講が入っているから、実際はあと1つ2つは試験が増えるはずだよ。嫌になっちゃうよ。早く春休みにならないかなぁ」と。このとき友人は、試験や補講を”自分ではないもの”として話しているのは明らかで、それらをいかにこなすか、ということが気がかりになっている。

このとき彼は、彼がそれほどまでに忙しくしなくてはならないのは彼自身のせいなのだということに気づいていない。彼が試験で忙しくするのは、もちろん試験でSを取り単位を取得したいがためである。しかし、彼以外の誰もそれを彼にさせることはできないから、彼が望んで自ら試験を受けなければ彼が僕に愚痴をこぼす破目になるはずが無い。よって、彼が大学の試験勉強のために睡眠時間を削らなければならなくなったのは他でもない、彼自身の決定によるところなのである。

反論として、「大学では単位をとらなければ卒業できないし、卒業するためには半期にそれだけの単位をとらなければいけないようになっている」という人がいるかもしれない。でも、そういう決まりになっている大学で4年間で卒業しようとたくらんでいるのも彼自身である。

すべての責任は行動する自分自身にある。”自分ではないもの”というものをでっち上げて責任をなすりつけて済ませることもできるかもしれないが、考え方によってはすべて自分の意志の問題として扱えるのではないか。このことはつまり、個をとりまく環境の問題はすべて個に帰せられる、ということになるのだと思うが、そうなると、環境についての問題というのは、人の頭の中の問題ということになるのではないか。

 

ここまで書いてユウスケは満足した。このレポートがどれだけの意味をもっているのか、それは実際は2単位というもの以外の何者でもないが、そんなことは考えなくて良かった。あとユウスケがやることといったら、ワードの文章をプリントアウトしてホチキスでとめる事だけだった。明日の昼の提出に間に合うように起きれれば、今回の思考が無駄ではなくなる。

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2007/02/16 05:31 | Comments(1) | TrackBack() | the first act
ep.08 ヒト活動論

今日もユウスケはトロンボーンを吹いていた。

いつもと変わらない、そんな楽器と触れる毎日。

朝(まぁ、昼に近い朝)おきて、学校へ。講義にでて、楽器を練習して、バイト。帰宅。シャワー浴びて寝る。

これを1週間に7回繰り返す。この1週間をつきに4回、12セットで1年。。

 

やっぱり疑問を持つ。この山パンのアルバイトみたいな毎日に。そして、考える。この生活で何を得られているんだろう。

考えていくうちに、ユウスケが気づいたことがあった。それは、自分が「何かを考えている」ということだった。

これは、山パンではないんだ、と、ユウスケは確信を持つことができた。ユウスケが「考えた」ことは、楽器で演奏するということについて「考える」ことから発生したにもかかわらず、その意味を濃厚オケの範囲にとどめておくことはなかった。そのことに気づいたことが、ユウスケにとって、助けになった。

主観的にはそうなる。でも、もしかしたら、ユウスケがそう信じているだけなのかもしれない。

しかし、それについて否定することは「本当は」難しいんじゃないかと思う。

知識とは、信じることと同じじゃないか?

 

「人間がやること」って、すべて同じ本質をもっているんだと思う。だから、何をやるかじゃないんだ。どうやるか、そこが本質と結びついているんじゃないかな。簡単とか、難しいとかはあるだろうけど、できるできないじゃなくて、やるかやらないか、っていうよく言われる(意味がわかってるのかは知らないけど)ことになるんだろうね。

さぁ、はたしてユウスケも良くわかってないかもしれないが。。


2007/02/11 16:00 | Comments(1) | TrackBack() | the first act
ep.07 「答え」はあるのか

18:55。

ユウスケは月、水、土の週に3日はこの時間に居酒屋にバイトに出ている。かれこれ2年以上やっているので、店の人からは頼りにされている…と本人は思っている。

店では日本酒、焼酎、梅酒、果実酒、サワー類、ブランデー、ウイスキー、ワイン、マッコリなどを提供しているが、店の人のノリしだいでいつのまにかメニューが増えていたりする。最近はぶどうサワーの上に生ビールの泡をのせた、「スノーグレープ」なるものを追加したみたいだが、まだ客席に運ばれているのを見たことは無い。

新しく追加されたメニューの中に、「梅酒(芋焼酎)」というものがあった。

「芋焼酎?」

ユウスケはふと疑問に思った。じゃあ、ふつうの梅酒はどんな種類の焼酎でつくられているのだろう。

その日のバイト中、ユウスケはそのことが気がかりでしかたなかった。あまりに気になりすぎて、ジョッキいっぱいになっても生ビールをつぎ続けたため、ビールがジョッキからあふれ出して、どばー。それを見られて店の人に笑われてしまった。まぁ、よくあるよくある。バイトが終わって家に帰ると早速調べてみることにした。

 

「梅酒」

梅酒(うめしゅ)とは、一般的に6月頃に収穫される青梅を35~40度程度のアルコール(ホワイトリカー、焼酎が一般的)で漬け込んだ酒で、日本を代表するリキュールである。 「うめざけ」「ばいしゅ」「うめじょうちゅう」とも言われる。梅1kgに対して砂糖0.4~1kg、酒1.8リットルが一般的な割合である。アルコールはホワイトリカー(甲類焼酎)、ブランデーが無難であるが、ジン、ウォッカ、ラム酒などのスピリッツや、日本酒、みりん、ワインなどの低アルコール度の酒でも漬け込むことができる。

「ってことは、焼酎なら甲類をつかうってことかな。ブランデーもよく使うのかな。あ。でも江戸時代にはすでに家庭で梅酒がつけられてたらしいから、伝統的な梅酒は焼酎を使うんだろうな。」

ユウスケは梅酒で有名なCHOYAでは梅酒をつけるのにどんな酒をつかっているのか調べてみた。以下、CHOYAのサイトから抜粋。

★チョーヤ梅酒 紀州
ホワイトリカーベースのスタンダード梅酒。梅そのものの風味が楽しめる昔ながらの味わい。
中に入っている梅の実はデコレーションにも最適。(梅の実はそのままでおいしく召し上がれます。)

★チョーヤ梅酒 ブラック
 ブランデーを使用したまろやかでコクのある味わいはソーダ割りなどカクテルベースにぴったり。720mlビン、1.8Lビン・ペットボトルと容器のバリエーションも豊富。

★チョーヤ梅酒 エクセレント
紀州産の特選梅とブランデーで造り上げた高級梅酒。
よりまろやかでコクのある味わいはシンプルなオンザロックからさまざまなカクテルベースまでワンランク上の梅酒が楽しめる。

「さらりとした梅酒は…のってないなー。原材料は調べればあるかな…。あった!原材料名は、梅、砂糖、醸造用アルコール、ブランデー、か。醸造用アルコールは甲類ってことでしょ?原材料名の書き方はJAS法で、『食品添加物以外の原材料は、原材料に占める重量の割合の多いものから順に、その最も一般的な名称をもって記載すること。』っていうふうに決められてるから、ブランデーよりも甲類焼酎のほうが多く使われてるってことか。でも、それよりも砂糖の方が多いんだね。。なるほどね~。まぁ、つまりバイト先にあった芋焼酎の梅酒は珍しい造り方をしてるんだきっと。甲類は個性がすくない感じがするから梅のお酒を造るときに梅とぶつかりあわないんだろうな。芋だと癖があるっていうけど、それで梅酒をつくるとどうなるんだろう…。今度行ったらちょっと飲ませてもらおうかな。」

今の時代、調べれば大抵の疑問は解けちゃうんだな~。とは思いつつも芋焼酎について調べるのはまた今度にして、図書館から借りパクしているファインマン物理学を机の上に開いた。

ユウスケはこの手の物理学の本を読むのが苦手だった。ファインマンはまだ数式が少ないからとりくみやすいかと思ったが、なぜだろう、嫌いではないのになかなか進まないのだ。図書館に返さなければならない日付はとっくに過ぎているのに、10分の1も読めていなかった。いま開いているページでは、ファインマンが素粒子と呼ばれる「点」について、表を用いて丁寧に説明してくれていた。原子は原子核と電子からなり、原子核は陽子と中性子からなり、陽子と中性子はクォークからなっていて、電子はレプトンである、と。(*本当はそんな言い方はしていなかったと思います)

「陽子とか中性子を作っている粒子なんていうのがあったんだ!!いくらでも細かくできそうだな(笑)」

とユウスケは思った。ユウスケにこの分野の専門的な知識はほとんど無い。けれど、ひとつ思うことがあった。

「『答え』ってあるのかな」

という疑問だった。

ユウスケは陽子より小さな粒子は電子しかしらなかった。しかし、クォークとレプトンと呼ばれる素粒子が存在していた。しかもそれらにたいしてハンリュウシというものが存在しているらしく、もう意味がわからない。でも、今まで当たり前だった、素粒子は陽子と中性子と電子だという世界がユウスケの中で崩れたということは確かだった。人類も同じ経験をしてきたことになる。どこかで世の中の『答え』が変わったのだ。

光が粒子だった時期もあれば波だった時期もあり、地球が太陽の周りをまわっていた時期もあれば太陽が地球の周りを回っていた時期もあり、天皇が神だった時期もあれば天皇が人だった時期もあり、チェロを弾くときに脇に本をはさんでいた時期もあれば脱力していた時期もあり、素粒子が3つしかない時期もあれば素粒子がわんさかでてくる時期もあるのである。

たしかに、帰納法的ではあるかもしれないが、可能性があるということである。そんなもんでしょう。

単純に一般化することには問題があるのかもしれないが、ユウスケには良くわからない。

ただ、一般化して考えることで、考えることの幅が広がる。

そう、今ユウスケは考えることを楽しんではいるけど、これも同じで、考えることが永遠の「答え」なのかどうかはわからない。ただ、可能性がそこにあると思うから、ユウスケは考えることを楽しんでいる。

常に流動的、常に不確実的。

それでいいんじゃないか。

 

ユウスケは自分の中に一つ結論をだした。これも流動的なのだろうけども。


2007/02/09 05:39 | Comments(4) | TrackBack() | the first act
ep.06 日本の女性

人の体というのは本当に「よく」できている。材料のほとんどはただのたんぱく質だが、それらが一つ一つ形をもっており、動く。そのため、機能を持っている。その機能が複雑に絡み合っているのかどうなのかは知らないが、「人」という大きな分子の集合体をつくっている。その「人」にたいしてなんらかの外界からのアプローチがあったときには、それに対してある程度決まった反応をするようにできている。

たとえば、アルコールは体内でアセトアルデヒドに分解され、アセトアルデヒドはアセトアルデヒド脱水素酵素によって酢酸に分解される。最終的には水と二酸化炭素とに分解され体外に排出されるらしいが、アセトアルデヒド脱水素酵素の働きが弱く、なおかつ代謝能力以上のアルコールを摂取すると、、頭痛、嘔吐感、喉の渇き、胸のむかつき、体の震え、アルコール性胃炎による悪心などの自覚症状が現れる。

これは、いわゆる二日酔いと呼ばれ、アセトアルデヒドの毒性のために起こる症状であると考えられているが、最近の研究ではアセトアルデヒドの血中濃度が下がったあとに二日酔いが起こるとから、原因はアセトアルデヒドではなく、アルコールがある種の神経細胞に作用することで血中のカテコールアミンという物質が増加するためではないかという見方もある。

対処法は、肉体的には脱水症状を起こしている為、大量に水分をとることと、肝臓でのアルコール分解には糖分が必要であるため、糖分をとることも有効である。

 

「なるほど…」

ユウスケはおもむろに起き上がり、とりあえず水分をとるために台所へ這っていった。

いつも思う。こんなになる前に飲むのをやめておくんだった…と。久しぶりに飲んだからどこまでがリミットかという感覚を忘れていたのかも…と自分自身に言い訳をしてみるが、この地獄から逃れられるわけではなかった。むしろ虚しさが増してくる。

「これが、形而上学的二日酔いというやつか…」

そう何やらつぶやくと、ユウスケは台所で力尽きた。。

 

 

日本の女性について、書く。どころじゃない…。


2007/02/07 14:36 | Comments(2) | TrackBack() | the first act
ep.05  トニーノ・カポーネ

さて、春休みに向けて濃厚大の学生は「試験」という伝統に追われている。

いつもであればガラガラの図書館も、この時期になると席がなくなるくらいの混みようである。

構内のいたるところで、自分のやるべきレポートや試験があとどれくらい残っているのか、ということを学生が報告しあっている。みんなそれなりに「試験」を楽しんでいそうだった。

当然ユウスケも例外ではなく、「試験」を受けなければならないのだが、彼は古代ギリシャの哲学について調べることに楽しみを見出してしまった。よりによってこんな時期に…。

ユウスケが見つけた本の中に『ギリシャ哲学史』(ルチャーノ・デ・クレシェンツォ)があった。筆者が読者に講義するような形式で書かれているこの本には、ソクラテスよりも時代の古いギリシャ圏の哲学者の話が載っており、2000年も昔に生きていた人間がどのようなことを考えていたのかということに思いを馳せることができた。

メインはそれら古の哲学者たちの逸話が筆者の解釈を通して書かれているわけだが、章と章の間には、ごく最近の哲学者?の話が番外編のように載せてある。どれも面白い話だが、その中のある一つの話を読んだとき、ユウスケはまるでその哲学者を見方につけたかのような喜びを感じた。その哲学者は、トニーノ・カポーネというそうだ。その本の中で、彼は「豊かさ」についてこう考えていた。

「私はね、豊かさとは、精神状態に過ぎんと思うよ。人は金がそんなになくても金持ちの気分になれるものなんだ。肝心なのは、稼ぎより少ししか支出しないこと、欲求をあれこれもたぬことさ」 

哲学者?の使う言葉は(正確に言うと、哲学者だけに限らず本人以外の人の話す全ての言葉は)、僕らが普段なにげなく使っている言葉とは意味が違う場合が少なからずあるとユウスケは感じていた。だから、このカポーネの言葉を解読するときにも、気をつけて意味を理解しようと努めた。だが、この場合は素直に受け止めてよさそうだ。

そのまま読み進めていくと、このカポーネの説明のためにさいてある最後のページが彼の次の一言で締めくくられていた。

「多くの人々は何とかして生命を延ばそうと腐心する。ほんとうは生活を深める必要があるのに!」

なんということはない、あぁ…そう、と思った人もいるかと思う。わざわざ斜線にする重要性があるのか、と。でも、ユウスケにとってこの言葉は額に入れて飾っておきたいくらいだった。それは、ユウスケもこのカポーネと「おなじようなこと」を感じていたからだ。どういうことか、ぜひお話させていただきたい!

日本人の死亡原因は、悪性新生物つまり癌が圧倒的に多い。高齢化社会になってきているのもあるせいかもしれないが、高齢になると癌での死亡率が増す傾向がある。逆に若い層での死亡は事故や自殺が多いのだ。20代の死亡原因の約30%が自殺だという衝撃の事実はまたここに書くべき考えが浮かんだら言及することにして、今言いたいことは、人は寿命を生きると癌で死ぬようにプログラムされているのではないかということ。少なくとも癌が治療されるようになれば、人はなかなか死ねなくなりそうである。

もしも、癌を治療することが高確率で可能になれば、日本人の寿命をもっと延ばすことができる!多くの癌研究に携わる人はそれが人の幸せにとって欠かせないことだと信じているかもしれない。たしかに、若いうちの癌は、不慮の事故のようなもので、成長期に有る体細胞はさかんに分裂したがっているからその勢いが癌細胞を後押ししてしまい、結果短期間で癌細胞が増殖し人間本体を死に至らしめることになってしまう。これは治療できるのならしてあげたいと願う。そういう意味で癌治療研究を否定するつもりは全く無い。

だが、人間(か、あるいは自然界)にプログラムされているとするなら、その癌が、その役割を果たすために”正常に”動き出すのだとしたら、それは自然の摂理であり、本来避けなくても良いことなのかもしれない。もし研究がうまくいき、癌が治療され、人間がその恐怖から永遠に別れを告げることに成功したのなら、あと10年は寿命が延びるかもしれない。…でも不死ではないのだ!結局、死というものは必ず来る。癌を克服した人間は、与えられたその10年でなにができるのか?家族との思い出を作る?仕事にかける時間を増やす?趣味に没頭する?

いや、その10年をどのように過ごすことができるかということを言いたいのではない。日本人は、とにかく健康に気を使い、長生きしようとはするけども、どう生きるかということについて考えたことがあるだろうか。

「豊かさ」ということについてカポーネが言っている。収入の絶対値を増加させることがすなわち「豊かさ」なのでは無いのだと。収入と支出の相対的な関係が「豊かさ」なのだと。

「生きる」ということについて、カポーネの言葉を借りて言ってみよう。生存している時間の絶対値が増加することがすなわち「生きる」ことなのか。。

ユウスケは考えることを楽しんでいるようだった。来週は「試験」の山場だというのに…。考えることは人間にとって必要なことだろうが、ある有名な哲学者は実際の現実に起きていることにあまりに無関心だったがために、ただの兵士に街中であっさり殺されてしまった。

そういえば、アリストテレスはこんなことを言っていた。「中庸」が良いと(笑)


2007/02/03 06:45 | Comments(1) | TrackBack() | the first act

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